新大統領の就任が決定した2017年1月。レイシズム的発言を繰り返した前代未聞の大統領候補、ドナルド・トランプ氏が、ついにホワイトハウス入りを果たす。それ以後、新大統領とメディアの対立は激化の一途をたどることになる。
2016年の大統領選の報道が過熱し始めたことから、「フェイクニュース」という言葉が飛び交うようになった。その後、大統領側もメディア側もこの言葉に踊らされ、ついに大統領自らが具体的な報道機関名を挙げながら「ホワイトハウス出入り禁止」を通達する事態にまで発展してしまう。ホワイトハウスと報道機関との間に存在していた「紳士協定」が破棄され、決裂状態に追い込まれたことが白日の下に晒された瞬間であった。
この一連の動きに注目していた一人の映画監督が、メディアと報道の在り方を問う新作映画の製作を決意することとなる。その監督の名はスティーブン・スピルバーグ。
80年代に「E.T.」「インディ・ジョーンズ」シリーズなどでハリウッドの黄金期をけん引し、93年に発表した「シンドラーのリスト」で巨匠の仲間入りを果たし、それ以降も「ジュラシック・パーク」シリーズなどで常にハリウッドのヒットメイカーとして第一線で活躍し続けてきた人物である。近年は「リンカーン」「ブリッジ・オブ・スパイ」などの社会派ドラマがお得意で、本作もその系譜に位置することになる。
トランプ大統領が特定メディアの出入り禁止を公言したとき、スピルバーグ監督は自分が映画化権を持つ題材の中から、1970年代に実際に起こったニクソン大統領とワシントンポスト紙との対立を形にしようと決心したのである。異なる時代とはいえ、同じような対立構造が今もなお存在し続けることへ人々の目を向けさせることができると考えたという。
そして、この決心からわずか9カ月で作品にしてしまうという、スピルバーグでなければできない離れ業を披露することとなる。主演はトム・ハンクスとメリル・ストリープ。映画界ではレジェンドといわれる名優である。彼らをキャスティングしたのには意味がある。それは、スターを起用することで興行面の堅実な伸びを期待するだけではない。彼らのような名優を用いることで、細かい演技指導をする必要がなくなり、短期間で仕上げることも可能となる。
だが、それ以上にこのキャスティングによって得られる効果は大きいといえよう。メリル・ストリープは、昨年のゴールデン・グローブ賞で痛烈にトランプ大統領を批判し、多方面から喝采を浴びていたし、トム・ハンクスも同じく反トランプの急先鋒として業界では有名であった。
本作が「どうしても作られなければならなかった作品」として、他のハリウッド作品とは幾分異なった系統に位置することがお分かりいただけただろう。
物語はベトナム戦争が泥沼化し、時の大統領ニクソンがこの戦争にどう応じるか、その手腕が問われていた1970年代前半である。ベトナム地域をめぐって、実はトルーマン大統領の時代から調査が細かく行われており、米国はベトナム介入によって不利益を被るしかない、という報告書(正式名称は『ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年』)が随時届けられていたのである。
しかし歴代の大統領は、この報告を読みながらも無視し続け、ついにジョンソン大統領の時代の1964年、米国海軍の駆逐艦が北ベトナムから魚雷攻撃を受けたことをきっかけに、本格的な介入へ踏み切る。この出来事をトンキン湾事件(実はこの攻撃そのものが米国によるねつ造)という。
ベトナムに赴き、現地の状況を目の当たりにした報告者たちは、冷徹な目で戦況を本国へ報告し続けていた。しかし、それが政治家たち(特に大統領関係者)のところまで伝わるにつれ、いつしか戦意高揚を煽る言動に捻じ曲げられていった。まさに、現代でいうところの「フェイクニュース」である。
これを告発するため、ペンタゴンからこれらの資料を持ち出し、コピーして各新聞社に送り付けた人物がいたことから話は始まる。やがてそれをニューヨーク・タイムズがすっぱ抜く。しかし、政府から新聞社は情報漏洩罪で訴えられてしまう。この裁判の係争中に、今度はワシントンポストにも同じようなコピーが送り付けられる。
それを受け取り、ジャーナリズム魂で応えようとする現場の編集長がトム・ハンクス扮するベン・ブラッドリー。そして、最終的にこの記事を掲載した新聞を発行していいかどうかの最終判断を迫られたのが、経営者のメリル・ストリープ扮するケイ・グラハムであった。刻一刻と締め切り時間が近づく中、彼らは新聞社存続のために記事を闇に葬るか、それとも国家的陰謀を市民に公開するかという「究極の決断」を迫られることになる――。
本作で取り上げられているのは、1970年代の物語であったとしても、それは単なる懐古趣味の歴史物語ではない。いかなる時代、いかなる状況であったとしても、それに左右されない本筋が国家にはあるのではないか、という問い掛けである。
米国には「合衆国」たらしめている支柱が2本存在する。1本は「ピルグリム・ファーザース(信仰の父)」、もう1本は「ファウンディング・ファーザーズ(建国の父)」である。17世紀に大西洋を渡ってでも新天地へ赴こうとしたピューリタンたち、これが前者である。彼らは今でも「宗教国家アメリカ」を形成する精神的支柱となっている。一方、多民族が入り乱れながらも諸州が統一された一国家として機能するため、知恵を出し合って政治システムを構築した人々、これが後者である。彼らは「民主国家アメリカ」を形成する実際的支柱を後世に残している。
この2つが見事に合わせられることで、「アメリカ合衆国」は命が与えられ、現在に至っている。それを端的に言い表しているのが、合衆国憲法修正第一条である。
合衆国議会は、国教を制定する法律もしくは自由な宗教活動を禁止する法律、または言論・出版の自由もしくは人民が平穏に集会して不満の解消を求めて政府に請願する権利を奪う法律を制定してはならない。
スピルバーグはこの精神へ立ち返れ、と訴えるために本作を作り上げたといっていい。昔も今も、権力を傘に国民を欺こうとする輩は姿を現す。そんな彼らに対して一人一人は無力だが、私たちがよって立つ基盤があるぞ、と訴えている。それが「アメリカ」という国家であり、それを支える憲法、さらにその精神を敷衍(ふえん)させる報道(メディア)だ、というわけだ。
だが、このメッセージは米国のみで通用するだけではない。まさに今の日本にこそ必要なメッセージが映画には込められていると思う。「改ざん」「忖度」が国家規模でまかり通る、という意味では、米国も日本もあまり変わりはない。そう、これは人間が生きる場であるなら、「フェイク〇〇」は、あらゆる状況下で起こり得るといえる。フェイクを「フェイクだ」と訴える勇気が求められる。しかし、それは犠牲の伴う危険な行為ともつながっていく。
そして、この進退窮まるギリギリの状況を、私たちが実際にどうやって切り抜けることができるのか。そう考えるなら、米国の、「建国の父」だけでなく「信仰の父」を加味した生き方こそ、私たちのよきモデルとなり得るのではないだろうか。
憲法修正第一条の精神構造は、まさにキリスト教のそれと類似している。昔も今も、罪が跋扈(ばっこ)する世の中であることは変わりない。そんな悪しき力に私たち一人一人は無力であるが、私たちがよって立つ基盤は聖書であり、キリストへの信仰である。それが「キリスト者」を強くし、世の中に逞(たくま)しく出ていく原動力となる。
もちろんその結果、キリスト教信者となることが(キリスト教界からするなら)最も望ましいが、この精神はそこまでの画一的な在り方を提示しているものではない。その精神を自らの生き方に活用する、すなわち「キリスト教信者」でなくとも、「キリスト教精神」を抱いた人間として生きることが求められているといってもいいだろう。
本作はトランプ政権に対して一歩も引くな、とメディア業界を叱咤激励する目的で作られている。しかし同じメッセージは、太平洋を隔てた日本においても有用なメッセージとなる。
そういった意味で、今私たちが見るべき一本であることは間違いない。
映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」は3月30日(金)全国ロードショー。TOHOシネマズ日比谷にて3月29日(木)特別先行上映。
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