聖書の記述には、時々「え?」と思う箇所がある。特に旧約聖書、その中でも特に「創世記」と「出エジプト記」のストーリーの荒唐無稽さは、他の聖書箇所から抜きん出ている。そんな箇所をどうやって人々に伝えるか?牧師や教会のリーダーたちは頭を悩ますことになるだろう。悩まさない一番の方法は、「そのまま」語ることである。「聖書に書いてあるからそうなの」。これに尽きる。
しかし、それだけで納得する方ばかりではない。どうしても説明を求められたり、なぜこんな記述になるのか、その解説を求められたりすることはままあることだ。そんな時、この映画は「聖書を物語る」ことに1つの示唆を与えてくれる。
まず本作は、驚くべきことにストップモーション・アニメで作られている。いわゆる人形を少しずつ動かし、一コマ一コマ撮影するという、アニメーションの基本にのっとっているということである。
さらに驚くのは、製作者の主体がアメリカ人であるにもかかわらず、舞台も登場人物も、そして物語のメッセージも「日本」を自然に感じさせるものになっているということである。日本人の私たちが見ても、「分かる分かる」とその物語展開を納得できる作りになっているということである。
主人公は、三味線の音色で折り紙に命を与え、意のままに操ることができる不思議な力を持つ少年クボ(こんな名前の日本人はいないが・・・)。彼がこの力を駆使してさまざまな冒険を体験する、というのが大筋である。ファンタジーと「日本昔話」をミックスしたような既視感に満ちた物語である。しかし、映像の斬新さがこれに加わることで、決して陳腐に感じさせない映画に仕上がっている。
何よりも「物語は何のためにあるのか」という普遍的なテーマを見事にエンタテイメントに昇華しているところは素晴らしい。「物語る」という行為は、お母さんが生まれたばかりの子どもに語り掛けるところから始まる、最も原初的な行為の1つといってもいい。いつしか「物語る」行為は子どもに受け継がれ、仲間や家族の中で語り続けられることになる。それは「私の物語」であると同時に、私が他者へ「物語る」ことによって、「皆の物語」へと拡大していく。それがさらに一般化したのが「桃太郎」であり「カチカチ山」であろう。
物語を聞いた者がそのお話を気に入るとき、聞き手は物語を通して話し手と一体化する。「物語による一体感」が生み出されることになる。
劇中最大のクライマックスは、やはりラスボスとの対決である。もちろん主人公はこの戦いに勝利するのだが、「勝ち方」が従来の勧善懲悪モノとは異なっている。詳しくは言えないが、「スター・ウォーズ/ジェダイの帰還」に通じる落としどころであった、と言えば通じるだろうか。その瞬間、物語全体の構造が明らかになり、この映画が一体何のための、誰のための「物語」であったかが分かるようになる。観客はここに驚きを禁じ得ない。
この展開は、聖書の物語にも適用させることができる。というより、そのような解釈を与えなければ、聖書が「全人類へ向けて神から与えられたラブレター」とはなり得ないだろう。
映画とも共通するところを挙げて少し解説してみたい。創世記に以下のような記述がある。
「アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ」(創世記5:4、5)
これをどう捉えるか。昔の人間は原罪にまだそれほど毒されておらず、930年生きたと解釈するか、はたまた後の箇所で「人の齢(よわい)は120歳」というところから現在に近づいたのであって、実際にこの時は900年以上生きたのだ、と捉えるのか。
しかしこれに対して、もう1つ別の解釈が成り立つ。それは、古代ユダヤ社会で受け入れられてきた文化的な解釈で、肉体は滅びても、その人間の記憶を留めている者がいる限り、その人の中で生き続けることができる、というもの。
そこで脚光を浴びるのが「物語る」という行為である。「彼(または彼女)」がこの地上にいなくなったとしても、その人物のことを覚えている者が彼について語り出すなら、彼はその物語の中で生き続けることができる。そして、語られた物語を聞いた人々を通して、幾世代も越えて彼(または彼女)は生きることになる。
つまり、アダムの子孫が900年以上の永きにわたって彼のことを覚えていて、語り継いでいったという解釈である。これは、どれが正しいと簡単に言い切れるものではない。どれも確たる証拠はないし、かといってすべてが荒唐無稽なファンタジーというわけでもない。
私たちにとって「物語ること」は、とても身近にあることがお分かりいただけただろうか。
考えてみると、イエス・キリストにもこの原理は当てはまる。イエスは、この地上に一切の文書を残していないという。ただ、彼のことを覚えていた弟子たちが生前(もちろん復活して天に帰られたのだが)のイエス伝を書き記したのが「福音書」となっているからだ。
私たちは、四福音書を通してイエスの愛や神の真実さを受け止めることができる。「キリスト者」となる者は、すべて聖書(福音書)を通してイエスを知り、神を実感するだろう。そういった意味で、決して福音書は作り話ではない。そこにイエスと共に歩んだ(人物の記録を編さんした)弟子たちが存在しているし、私たちもそれに連なる者となるのだ。
本作は、米国人が日本の文化をきちんと研究し、理解して物語を作り出している。しかし、このような展開を思いつくその原点に、私はやはり「キリスト教圏」で生まれ育ってきた人々の聖書解釈の手法があるように思うのだが、いかがだろうか。
見終わった後、あれこれと語りたくなること請け合いの秀作である。間もなくDVD化されるという。ぜひご家庭で、または教会や神学校で「物語論」の傑作として鑑賞してみることをお勧めする。
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