間もなくアカデミー賞が発表される。これは米国映画の祭典であると同時に、いわゆる世界ナンバーワンの映画を決定する出来事と受け止められる。今年は、ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」が13部門でノミネートされており、他の作品より頭一つ分抜け出している感がある。作品がSF色の強い作品であるため、アカデミー賞は獲れないのではないかと囁(ささや)かれているが、ぜひ頑張ってもらいたい。
とはいえ、「頑張って」こういった作品を応援しなければならないということが、アカデミー賞の限界を指し示しているともいえよう。それは「芸術的志向」が強すぎるということだ。
かつて「ロッキー」シリーズや「ランボー」シリーズでアクションスターとして一斉を風靡(ふうび)したシルベスター・スタローンは、アカデミー賞に関してこんなコメントを寄せていた。
「俺たちがアクション映画を作って金をもうけさせてやっているから、映画会社はアカデミー賞好みの大作を作ることができるんだ。だからアクション映画やその映画で演じる俳優たちにもっと敬意を払うべきじゃないのか?アカデミー賞作品が優れていることは分かるけど、大衆はアクションの方が好きなんだぜ!」
これは1990年代初期のコメントだが、この発言から100年以上も前に、同じような気持ちを抱きながら、お高くとまっている「芸術界」に挑んだ男がいた。それが本作品の主人公フィニアス・T・バーナムである。彼は19世紀半ばから末にかけて米国で活躍した興行師。彼によって現在のサーカスやショー形式の土台が作り出されたといわれている。
このバーナムを演じるのは、「レ・ミゼラブル」や「X-MEN」シリーズでおなじみのヒュー・ジャックマン。彼は天性のエンターテナーで、人があっと驚くことを追い求め、常に明るく前向きな姿勢を崩さない。実は、その背後にどうしても拭い去れない「引け目」があるのだが、それは物語の後半まで露呈しない。ここが物語の肝となるのだが、今回はそれには触れない。
やがて彼は、難破してしまった船の所有証書が今も有効であるかのように見せかけて銀行から融資を受け、事業を開始する。それがやがてサーカス団(初めは見世物小屋だった)へと発展していく。
この先が物議を醸すところとなる。集められた「芸人」たちは、それぞれどこか障害を負っていたり、外見の異様さから敬遠されていたり、そして人種的な差別を受けている者たちばかり。見方によっては、彼らをさらし者にしてバーナムはお金を稼いでいたことになる。しかもその身体的な特徴をデフォルメして売りにするという際どいやり方で(だから新聞記者から「偽物だ」と言われてしまう)。
だが障がい者へのそういった現代的な視点を本作ではあまり強調しない。むしろ19世紀の米国では当たり前であった「異物排除」によるWASP優位社会のありさまを痛烈に非難するべく、彼ら芸人たちはバーナムによって生きる意味が与えられた存在として描かれている。
中盤、バーナムは内面の醜さを露呈させ、上流階級の仲間入りを目指し始める。中産階級以上の人々に受ける女性歌手を見いだし、彼女との興行へと舵を切ってしまう。当然サーカス団は置いてきぼりをくらうことになる。それを知った彼らは、怒りと悲しみと共に「This Is Me(これが私だ!)」を凛(りん)と歌い上げる。このシーンは涙を禁じ得ない。この作品が今の米国で生み出された意義をストレートにつかみ取ることができる名場面といえる。
彼らは白人社会から除け者にされたマイノリティーである。その彼らが一緒になって「これが私だ!壁を打ち破れ!」と歌うのだから分かりやすい。一方で「壁を造る」ことを公約に掲げ、大統領になった白人がいる。それに対する決定的なNOを突きつける本作は、格差社会、人種差別、そしてWASPの焦りを見事に物語へと盛り込んでいる。
上流階級はバーナムのサーカス団を小バカにし、「これは芸術とは呼べない」と一顧だにしない。そんな彼らに認められたいという願望を歪んだ形で露呈させたバーナムと違い、常に邪魔者扱いされてきた芸人たちは這い上がる術すらない。いや、このサーカス団こそ彼らのアイデンティティーに他ならないのだ。
そう、この映画は19世紀半ばの米国を舞台としながら、当時とまったく変わらない(ある意味さらにひどくなっている)現代アメリカを痛烈に批判しているのである。WASPが「出ていけ!目障りだ!」と訴えるのに対し、マイノリティーは「ここに私がいる!」と歌い上げている。本作のテーマソングが見る者の心を打つのは、今の米国をそこに反映させているからだろう。これがその動画だ。
気取った人々からは無視され嫌がられる彼らだが、市井の人々からは絶大な人気を誇る。観客は皆貧しくもたくましく日々を生きている人々である。自らの過ちに気付いたバーナムは、再び原点に立ち返り、芸人たちと共に復活を遂げる。そこで彼が発した言葉がこれである。
「もっとも崇高な芸術とは、人を幸せにすることだ」
多くの人が鑑賞し、その誰もが笑顔になって帰る。この魔法のような変化を生み出すものこそ、芸術の名に値する、とバーナムは語る。それは冒頭で紹介したスタローンの発言と軌を一にするものであろう。いつしか映画が「お高く」なってしまい、アクションやスリラーなど、実は多くの映画ファンが楽しみにしているジャンルに「B級」というレッテルを貼ってしまう。これでいいのか。本当に優れている作品とは、大衆の心をつかむのではないか。大いに考えさせられる課題である。
一方、見世物小屋のようなエンタテイメントが活況になってきた19世紀半ば、その背景にキリスト教が一枚噛んでいることも忘れてはならない。メソジスト派から派生したホーリネス運動がそれである。庶民の伝道を目指して、信徒説教者を輩出したメソジスト派(ジョン・ウェスレーの流れを汲む教派)は、やがてキリスト教界でメインライン化していく。すると彼らは中産階級から上流階級へとシフトしていき、貧しき庶民と向き合うという姿勢を失っていった。これを看過し得ないと思った一部の人々がホーリネス運動を展開し、より多くの一般大衆向けに福音を伝えようとしていく。
その際、彼らは既成の教会や教派に頼ることはできなかった。なぜなら彼らの活動は、今までのキリスト教会の在り方を半ば否定するものであったため、集会の場所として会堂を借りることができなかったからである。そのため、ホーリネス運動推進者は郊外にテントを立て、そこで人々の興味を引く集会を行い始めることになる。市井の人々からは歓迎されるが、既存の教会を運営していた「地位ある人々」からは敵視された。だが、人々がそこへ集まることを止める術はない。やがてテントはさらに拡大され、各地に従来の枠にとらわれない「新しいキリスト教」が生み出されていく。そこでは歌や踊りなどのエンタテイメント的要素がふんだんに取り込まれていく。これが今のメガチャーチスタイルの発露と見なされている。
映画の中で「サーカス団」の建物が焼け落ち、彼らがテントを張って興行するシーンがある。まさに19世紀後半のキリスト教事情ともリンクするシーンである。その後、ホーリネス運動から派生してペンテコステ諸派が生まれる。この流れに属する筆者は、劇中の芸人たちに人一倍感情移入してしまうのも、もしかしたら歴史的ルーツのなせる業かもしれない。
いつの時代も、そしてどんな分野でも、マジョリティーとマイノリティーの軋轢(あつれき)は起こるものである。確かに大衆迎合のポピュリズムにも危険性はあるだろうが、だからといって既得権益を守ることだけに汲々とする現代社会に対し、キリスト教界も映画界もブレイクスルーを願って全力を尽くしていることだけは決して否定されない事実であろう。
本作は、音楽とエモーショナルなダンスを楽しむこともできるし、物語の背景にある現代米国事情に思いをはせることも可能である。さらに、キリスト教の神学的視点で分析する楽しみも否定できない。「グレイテスト・ショーマン」は、1粒で何度もおいしい?今見るべき傑作エンタテイメントであることは間違いない!
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