要は「兄弟げんか」「姉妹げんか」の話である。さらに言えば、物語で引き起こされるさまざまな事件は、一見すると彼らの関係に大きな変化をもたらすように思える。しかし、結果的に何ももたらさない。登場人物が成長したり、彼らの関係が新たに展開したり、そのような目に見える変化は起こらない。
しかし、だからこそこの「2組のきょうだい」物語は、見る者の心に深く突き刺さることになる。「お前はどうなのか」と。きょうだいがいても一人っ子であっても(ちなみに筆者は一人っ子だ)、鑑賞した者にとって忘れられない一作となるのは必然である。
物語は2組の兄弟と姉妹が主役だ。この男女2組が織りなす人間ドラマ、彼らの会話劇がこの作品の肝だ。
強盗で刑務所に入っていた兄、卓司(新井浩文)が出所し、弟、和成(窪田正孝)のところへ転がり込んでくる。兄の卓司は、弟なら甘えさせてくれることを知っている。粗暴な性格で、一獲千金を狙っていつも危ない橋ばかりを渡ろうとし、失敗ばかりしている。
一方、弟の和成は小心者で、真面目に地元の印刷会社に就職し、両親の抱えた借金を返済代行しつつ、自分の老後のために貯金を欠かさない。そして、心の中では兄を嫌悪し煙たく思いながらも、いざ本人の前では強いことが言えずにいる。
もう1組は、小さな印刷所を父から引き継ぎ、その経営を任されている姉、由利亜(ニッチェの江上敬子)と、同じ会社に就職しながらも仕事に興味が持てず、グラビアやAVまがいの芸能業界に足を半分突っ込んでいる妹、真子(筧美和子)の物語である。
姉の由利亜は頭脳明晰で料理も得意。しかし、その外見はお世辞にも美人とは言い難く、男女の恋愛にはまったくのビギナー。一方、妹の真子は要領だけはよく、見栄えの良さから周囲にちやほやされる。しかし、外見だけで「中身は空っぽ」であることを本人が一番分かっている。当然、芸能界でもよいように扱われ、なかなか芽が出ない。
この2組(4人)が出会うことで、それぞれの内面に少なからず変化が起こり始める。その心情的な起伏を追う1時間40分が本作である。
なんでもできるが外見に自信がない由利亜。真子との比較を周囲からさんざんされてきた彼女は、事あるごとに妹を引き下げる。「あんたは何をやらせてもダメ」「英会話を習いながらまったく上達しない」など、肉親だからこそ分かる相手の弱みをピンポイントで突いてくる。
一方、真子も姉の弱みを知っている。由利亜には恋愛経験がないとはいえ、恋心を抱かないということではない。いつも自分をこき下ろす姉にあてつけるように、真子は持ち前の人懐っこさで、姉が恋心を抱く印刷会社の営業マン(窪田演じる和成)と親しくなり、付き合い始めるのだった。しかも、姉の前であえて和成のことを話題にし、そのアツアツぶりをアピールする。
そんな折、卓司が怪しい薬品の販売を手掛けるようになり、大もうけする。これを快く思わない和成は、兄の成功を妬むようになる。卓司は卓司で弟を急に見下すようになり、両親の借金を一気に返済したり高価なマッサージ器具を購入したりして、「俺がお前らの面倒をみてやってるんだぞ」と横暴な振る舞いを始める。
ところが、卓司が販売していた薬品が違法薬物であることが判明し、警察が彼を指名手配するようになり、事態は思わぬ方向へ動き始める。それは卓司・和成兄弟のみならず、由利亜・真子姉妹もの運命を大きく動かすものであった・・・。
そしてこの兄弟、姉妹がついに一同に会することになる。そこで交わされる会話がたまらない。表の意味と裏の意味、本音と建前が交錯し、怒りと妬(ねた)みが入り乱れる。そんな会話を聞かされる観客は、決して居心地良いものではない。だが、これがこの映画の狙いなのだ。
映画のパンフレットにはこう書かれている。
「最大の理解者だけど、いろいろ知っているだけにうっとうしく、似ていないようでどこかそっくり。お互いにあんな風になりたくないと思いながらも、時には羨ましく思ったり・・・」
まさに兄弟、姉妹とは、そういった「疎ましくも切り離せない存在」なのだろう。
見終わった後、ふと聖書に登場する「きょうだい」に思いを馳(は)せた。すると、聖書の中には、「犬猿」にそのまま登場させてもいいくらいの人物が多く存在している。彼らは本作の登場人物と同じくらい入り組んだ感情に束縛されている。
例えば、カインとアベル。人類最初の兄弟にして、最初の殺人事件は兄が弟を殺すというショッキングなものだ。その原因は嫉妬。神が兄の貢ぎ物には目をとめなかったことから、弟を逆恨みしての犯行である。
次の1組はエソウとヤコブ。兄エソウが父に愛され、自分(ヤコブ)は母に偏愛されている。そのいびつな家族関係をいいことに、父をだまして兄エソウの権利を奪うヤコブ。それを知って激昂するエソウ。長年の逃亡生活の果てに兄弟は対峙するが、決してそれは気持ちのいい和解ではない。自己中心と他者比較の果てに、両者リングアウトとなる。
新約聖書で有名なのはマルタとマリアである。姉である自分にだけ身の回りのことをさせ、イエスの足元で座っているだけの妹マリアを見て、ついマルタは声を荒げる。「私にだけ世話をさせている妹をなんともお思いにならないのですか?」。しかもその非難の矛先は、あろうことか、客人のイエスに向けられている。姉と妹という設定からして、由利亜・真子姉妹の姿がここに透けて見える。
同様に有名な兄弟といえば、ルカ15章「放蕩(ほうとう)息子」の例えに登場する兄と弟だろう。しっかり者の兄といいかげんな弟という設定は「犬猿」とは立場が逆だが、兄弟の確執ということでは同じだ。単純でバカだけど素直な弟に対して、どす黒く内向的なのは兄の方である。ここでも怒りと嫉妬の矛先は、弟にではなく父なる神に向けられているのが興味深い。
放蕩の限りを尽くして帰還した弟のために祝宴を催そうとする父に対し、「あなたは私に友達と遊べと言って子羊一匹すらくれなかった」と恨み言を言う。そして祝宴に入ろうとしない兄。兄卓司の自由奔放さに憧れながらも、そうできない自分の不甲斐なさを嘆く和成の姿は、この「放蕩(ほうとう)息子の兄」と重なるのではないだろうか。
聖書は決して聖人君子の物語集、道徳訓ではない。どこか欠けていて、その欠けを自分が一番よく知っているから、それを見せまいと気丈に振る舞う愚かで滑稽な人間たちのドラマである。
そして、神がこの愚かしい人間を愛おしく見てくださっていることを伝えているのが「福音」である。この福音のメッセージが2千年間変わらず語り継げられたことから、キリスト教は「世界三大宗教」の一角を担うことができたのである。
この作品に対する観客、そして何よりもオリジナル脚本を書いた吉田恵輔監督のまなざしは、まさに聖書における神の視点だと言えるだろう。完全無欠とは程遠い2組のきょうだいに対する吉田監督のまなざしは、基本的に温かい。人間の業の深さ(キリスト教的には「罪深さ」)を冷徹に描きつつも、そのような一面を持つ人間に対する製作者側のまなざしは、出来の悪い我が子を見る親の視線である。そして、同じ視線を観客にも持たせることに成功しているこの作品は、翻って観客自身が自らの存在を直視するように促すことになる。
「愚かしくも愛おしい人間」への温かなまなざしは、創造者(神・監督)から敷衍(ふえん)して、その世界に住まうすべての人々(被造物なる人間・登場人物)へと浸透していくものなのだろう。
■ 映画「犬猿」公式サイト
2018年2月10日(土)より、テアトル新宿ほか全国順次ロードショー
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