しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(新約聖書・マルコによる福音書10章14~15節)
失われた30年
最近、「失われた30年」という言葉をよく耳にしますが、これは保育界にも通用する言葉です。結果的に言えば、共稼ぎ(をせざるを得ない状況)が当たり前になってきた30年ほど前から、少子化対策は空振りを続けてきました。
現代の保育の必要性とは一体どういうものなのでしょうか。政府は子育て支援の拡充を実行してきましたが、それが実を結んでいるとは言い難い現実を、私はこの15年間体験してきています。その一方で、現場の人材不足は覆うべくもなく、また、保育職による園児虐待も数多く報じられています。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
予兆ともいえる時代の変化
この30年間で大きく変わったのは、子どもたちの生きる世界です。私が生まれ育った地域では、私が最後のガキ大将みたいな存在でした。何も、力が強いわけではなく、体が大きかったわけでもありませんが、私が小学6年生になると先代のガキ大将から引き継いで、近所の子どもたちをまとめて、手打ち野球やドッチボール、缶蹴り、ドロケイ、コマ回しなど、夕方暗くなるまで遊んでいました。
授業が終わり、学校の昇降口を出ると、暇をつぶしながら待っていた近所の低学年の子たちが、「今日は何して遊ぶ?」と駆け寄って来たことを思い出します。そうしたことは、私が中学校に入学してからもしばらくは続いていましたが、その後はぱったりと途絶えてしまいました。新興住宅地であったことで、後が続かなかったのです。
ファミコンこと、ファミリーコンピュータが発売されたのは1983年7月。私が中学1年生の時です。このあたりから野外で遊ぶ子どもたちの声が聞こえなくなってきました。今から考えると、この波は、その後も私の世代を追いかけてくるような感じでした。大学を卒業した数年後、大学の教授が「今の大学生は中学7年生みたいだよ」とぼやいていたことを覚えています。
その後、構造が変わり始めます。お金を払う側と受け取る側の立ち位置が、上下関係そのものになり始めるのです。学生と教員は主客が逆転し、大学では学校に一番近い位置にあった職員駐車場が学生駐車場に入れ替わることも起こりました。モンスターペアレントなんていう言葉が出始めたのもこの頃です。
「サービス」という言葉の違和感
保育を含めた子育て支援事業は、いわゆる「サービス業」としての展開が求められてきました。保護者のニーズに応えることが求められ、延長保育や休日保育、卒園後の学童保育はもちろんのこと、保護者支援なども重視されてきました。最近では、こども家庭庁なども設置されましたが、子育て事業においては行政サービスを増やす方向に舵が切られています。
その一方で、保育施設の現場を中心に「サービス業としての求めに応じることの難しさ」を感じ始めている様相も見えてきました。日本語では、「サービス」という言葉は「無料提供」の意味合いで使われる場合も多く、そもそも保育サービス自体が行政からの給付金で賄われていることもあり、特に福祉分野では、それが無料提供のように思われているサービスが多いことも問題です。
どこまでがサービスで、どこまでが支援か
今、福祉業界では、サービスと支援がごちゃまぜになってしまっているように思われます。サービスとは「求めに応じてなされる対価を伴った技術提供」であり、支援とは「その人が必要とする情報や相談の提供」という意味合いで使われていることがほとんどです。どのようなサービスを選び、どのように使うのかという情報を提供するところまでが、いわゆる「無償の範囲」に捉えられているのです。
このような無償の範囲に入る情報提供や相談は、本来的には行政や専門機関が行うべきことですが、行政や専門機関が行う情報提供や相談はほとんどが断片的で、また客観的過ぎるため、保護者の伴走支援は各施設に求められてしまうのが現実です。行政や専門機関が取り残してしまっていることこそが、利用者が最も知りたいことであったり、最も助けが必要なことだったりする場合が少なくありません。
カスタマーハラスメント
先日、ある保育施設の園長から、「カスタマーハラスメントのポスターを見ていて、従業員の長時間拘束もカスタマーハラスメントであることを知りました。ほんの一部ですが、特定のご家族からの相談に、スタッフが長時間、そしてほぼ毎日のように対応しているケースがあります。これはカスタマーハラスメントと理解すべきなのでしょうか」という質問を頂きました。次回は、この質問をもとに考察を進めてみたいと思います。(続く)
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