2017年の数ある映画の中で、「意外な掘り出し物」ベスト1を挙げるとするなら、間違いなく「新感染―ファイナル・エクスプレス」である。ゾンビ映画という手あかのついたジャンルを扱いながら、最後に意外な落としどころを持つこの映画は、怖いもの見たさで劇場に訪れた人々を涙と鼻水でぐしょぐしょにしてしまったことだろう。かく言う私がそうだった。監督はヨン・サンホ。韓国映画界ではアニメーションを主に扱ってきた監督で、「新感染」が実写長編第1作であったという。
「新感染」は日本でもそこそこのヒットであったため、彼の以前の作品が日本でも公開されることとなった。それが今回取り上げる「フェイク―我は神なり」である(劇場公開時は「我は神なり」のみ)。テーマはずばり「宗教」。いや、もっとストレートに言うなら「キリスト教」である。しかも一見すると、これは福音派、ペンテコステ派の諸教会がモチーフになっている。
物語は、どこぞのキリスト教会の牧師とその教会の長老がさびれた村にやってくるところから始まる。この村はやがてダム建設によって水没することが決まっていて、各家庭は別の町へ移転を余儀なくされている。村人は貧しくも善良な人々で、やってきた牧師たちの集会で神に出会い、心洗われる体験をする。それだけでなく、病気であった者が牧師に祈ってもらうと癒やされたり、車いすでやってきた者が立ち上がって歩けるという奇跡も起こり始める。
しかし、これはすべて牧師と長老が仕組んだ「サクラ」であり、こうやって各地を回って詐欺を働き、お金をがっぽりと稼ごうとしていたのである。このことが、物語の前半ではっきりと明かされる。
しかし、ここにイレギュラーな不確定要素が2つ生まれてしまう。1つは、人をまったく信用せず、子どもが大学へ行くために貯めておいた貯金すら賭け事や飲み代に使ってしまう、やくざ崩れの男の登場である。彼はいち早く詐欺集団の「からくり」に気付き、彼らの化けの皮をはがそうと躍起になる。
もう1つは、だます側にいた牧師である。彼はこの働きを進める上で、いつしか本当に人のために尽くしたい、また人々に希望と勇気を与えたいと願うようになっていくのである。しかし、彼にはどうしても消すことのできない過去の汚点があった。牧師として教会に仕えていたとき、家庭内暴力で苦しんでいる女性と親しくなり、彼女と一夜を共にしてしまうのである。
この女性が未成年であったことと、最後に父親の責め苦に耐え切れず自殺したことで、彼の立場は一気に悪くなり、最終的にその教会の牧師を辞任しなければならなかったのである。彼の中には、もう一度やり直したいという思いと、今のまま多くの人からお金を巻き上げて生きる暮らしを捨て切れないという思いとが交錯していたのである。
やがてこの2つの不確定要素が絡み合い、物語は思ってもみなかった結末を迎えることになる。(あとは見てのお楽しみ!)
何度も登場する集会の風景、そこで行われる祈りと踊り、そして音楽。これらは米国から流入したキリスト教を揶揄(やゆ)しているのだろう。言い換えれば、映画などのエンターテイメントになるほど韓国のキリスト教は熟したということか。もっとはっきり言うなら、熟しすぎて、腐り始めてしまったという警鐘を鳴らしているのだろうか。
映画であるため、表面の善良そうな顔と詐欺師同士だけになったときの裏の顔を見せてくれ、観客は「神の視点」で人物を判断することができる。しかし、実際は表の部分しか私たちは知ることができない。そして、それで人が満足なら、その方が幸せなのかもしれない、と映画は私たちの価値観を揺さぶろうとする。
劇中、集会に参加するようになって急に健康を取り戻し、彼らの教えを人々に説くようになった初老の女性が出てくる。彼女は教会で紹介された「命の水」を飲み続け、それで良くなったという。しかし、それから数カ月してもっとひどい症状が出るようになり、ついに伏せってしまう。だが、彼女は信仰を捨てない。「私は幸せだ。私はもうすぐ天国へ行くのだ」。そう言い続け、息を引き取る。
その姿を見ていた夫は、やくざ崩れの男から「お前らは教会にだまされているのだ」と迫られたときこう語る。「この安らかな笑顔を見ろ。これがだまされた者の姿か。この笑顔を見た以上、俺も信じるしかないんだ」
この映画のメッセージはここにある。疑い、いぶかしく思い、そして険しさを増していく生き方と、だまされているかもしれないが、それでも安らかに生涯を終える人生と、果たしてどちらが本当に幸せなのだろうか、と。
この問いが映画全体を覆っている。「宗教とは何か」「信仰とは何か」。そして、これらを受け入れて生きることは、果たして本当に「だまされた」ことなのか、それとも・・・。
キリスト教に限らず、何かを信心し、特定の宗教を持っている信仰者がこの映画を見るなら、この「答えなき問い」の前に、自身の在り方を内省することになるだろう。
しかしもう一方で、この物語に登場する詐欺師集団の教えが、決して「キリスト教」ではないことも明記しておかなければならない。監督や脚本家がそのことを知っていたのかは分からない(劇中、一度も「キリスト」とか「イエス」という固有名詞は出てこない。あくまでも「神様、主」と語っている)が、そのような配慮を抜きにしても、この牧師や長老(詐欺師たち)が語っているのは、歴史的に正統なキリスト教ではない。どちらかというと「エホバの証人」に近い教えを広めている。
まず、救われて天国に行ける人数が14万4千人と決まっていること。そして、皆がその中に自分も入れてもらうために信仰の証しを立てようと努力していること。そして決定的なのは、自分たちは「まだ罪が許されていない」と信じ、必死になって来世へのパスポートを手にしようとしていることである。
見始めたとき、彼らは十字架の前に出て祈り、踊り、そして「主よ」と叫ぶ。それは「私を救ってください。私を14万4千人の中に入れてください」という懇願の祈りである。つまり彼らの宗教性は、不安に基づいた熱心さなのである。
キリスト教はこれのまったく逆を行く。救われた喜び、罪赦(ゆる)された感動、そして何よりもその救いを「現世」で体感できることに醍醐味がある。プロテスタントであれば、パウロ的観点に立つなら、「行いによらず、だた信仰によってのみ」ということになる。
おそらくこういった映画をクリスチャンが見るなら、「1人でも多くの人に見てほしくない映画」と思われるだろう。こんな映画がはやると、キリスト教への偏見が助長される危険性がある、と捉えたくなるからである。
しかし、私はあえて申し上げたい。この映画こそ、教会できちんと上映すべきだ。そして鑑賞した後、この映画に出てくる「キリスト教もどき」と「キリスト教」の一体どこが違うのかについて、レクチャーをしてあげるべきだ。
それを踏まえてこの映画を見るなら、その先にある製作者からの問い掛け(「宗教とは何か」「幸せになるとはどういうことか」)に対して、クリスチャン、未信者の隔てなく、建設的な議論をすることができるのではないだろうか。
そういった意味で、ぜひ教会で、ガイドライン付きで鑑賞するに足る秀作であるとお伝えしておきたい!
■ 映画「我は神なり」オフィシャルサイト
■ DVD「フェイク―我は神なり」
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