ハリウッドだけでなく、世界的に見ても稀有な映画監督の1人として間違いなく数えられるであろうクリント・イーストウッド。御年87歳が、自身のフィルモグラフィー最短の上映時間で最高の傑作を生み出した。
90歳近くになっても創作意欲はますます増すばかりのイーストウッド監督は、ついに「実際の事件」を描くのに、演じる俳優として「その場でその出来事を体験した素人」を起用して、映画を撮ってしまった。演技なんてまったく知らない素人が、たとえ94分という小粒な作品とはいえ、ハリウッドのメジャー映画で主役を張るなんてことが可能なのか?そんな不安が頭をよぎったことは否定できない。しかし、これがいい意味で裏切られることになる。
題材となっているのは、2015年に起きたパリ行きの特急列車内で554人の乗客全員をターゲットにした無差別テロ襲撃事件。犯人は拳銃、ライフルとともに300発以上もの弾丸を持ち込んでいたのであった。未曽有の大惨事が起こってもおかしくない状況で、この事件を未然に防いだ(とはいえ1人は銃で撃たれ、主人公の1人もナイフで切り付けられたが)のは、たまたまヨーロッパを旅行中だった米国の若者3人(男性)であった。
映画は、彼らがどうやって旅行を計画し、どんな行程をたどったかを丹念に見せていく。このあたりは少し見ていて単調な気がするが、実は観客に「なんでこんなダラダラと旅行記を見せつけられなければならないんだ?」といぶかしく思わせる「演出」であったことに後で気付かされることになる。
同時並行で、主人公3人の生い立ちから、どのような人生を送ってきたかについて、彼らと家族、友人知人の証言を元に再構成している。3人は、人種的には白人が2人とアフリカ系アメリカ人が1人ということだが、共通していることがあった。それは、彼らが学校では常に「問題児」であったということ。シングルマザーの家庭に育ち、皆から「父親がいないからああなった」と後ろ指をさされ続けてきたこと。どこか障害があるのではないかと疑われ、更生施設に入るか、薬剤を投与して正す以外、まともになる道はないのでは、と思われていたこと。つまり、学生時代から皆の鼻つまみであったということである。
彼らの母親の1人が敬虔なキリスト教徒であったらしく、「皆さんの評価以上に、神はより強く私たちの子どもを導いておられる!」と啖呵(たんか)を切り、ここでもトラブルが絶えなかったようである。しかし、後にこの「啖呵」が単なる捨てゼリフではなく、実現するさまを人々は知ることとなる。
その彼女の息子はというと、勉強にはほとんど興味を示さないのに、キリスト教系の学校に通っていたためか「フランチェスコの祈り」だけは覚えて毎晩唱えていた。彼は、後に事件を振り返り、下記の言葉が自分に成就したことを実感したという。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。(中略)
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、
愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見いだし、
許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
しかし映画は、こういった「宗教性」をあまり前面には出してこない。「神の摂理」だとか「これが彼らの使命だった」という信仰深い米国人が好むようなドラマチックな展開へと突き進むことはない。この点に私はとても好感を持った。
確かに3人のうちの1人は信仰深い側面があり、その彼が幼少時に日常的に行っていたこと(祈り)がこの事件によって成就した、と解釈することも可能だろう。だが、それでは彼らが私たち一般人とはかけ離れた「スーパーヒーロー」と化してしまう。そうなると、確かに映画としての面白みは増すだろうし、観客は心地よいカタルシスを得ることはできよう。
少し話がズレるが、同日公開だったマーベルの「ブラック・パンサー」はまさに「スーパーヒーロー」物の王道を行く壮大な「フィクション」であった。
だが、本作はそのような脚色をほぼ行っていないとイーストウッド監督は述べている。逆に彼は「この映画はごく普通の人々にささげた物語である」とまで言う。昨日と同じ「今日」が始まり、5分前の何気ない時の流れが継続されただけの「今」が通り過ぎていくことを、本作は決して否定しない。むしろ、その弛緩した時空間に基づいて、その次の瞬間に起こる「非日常」を際立たせていく。そのためには、ダラダラと自撮り棒で観光地を撮りまくる彼らの姿がどうしても必要であるし、他愛のない「男子トーク」に付き合わされる観客の「退屈な時間」もまた、その後にいきなり現れる急展開にはどうしても必要な前振りだったのである。
日常の延長線上に遭遇した非日常に対し、この3人の若者はどう行動したのかを観客にも追体験させることができた、という意味では「丁寧な筆致」であったと言っていいだろう。
実は信仰も同じなのだと思わされた。確かに聖書の世界は、モーセが紅海を分けたり、天から硫黄が降ってきたり、大洪水が世界を飲み込んだり、イエスがラザロをよみがえらせたりしている。これら一大危機に「スーパーヒーロー」が大活躍する物語は、私たちの涙腺を刺激し、また信仰を奮い立たせる一助となる。だが、このような興奮は長続きしない。なぜなら、やはり私たちは「日常」を生きているのであって、「非日常」を日常とする人生を送ることは「普通」の人々にはなかなかできないからである。
むしろ求めるべきは、日常の歩みの中に「神のかそけき声」を聴くことではないだろうか。何気ない次の瞬間、そこに「先回りした神」の臨在を感じることができるとしたら、私たちはいつでも神に導かれた歩みを、行動を起こすことが可能となるはずである。
そういった観点から見るなら、本作における信仰的側面は絶妙のバランスで史実に溶け込んでいるといえよう。隠し味というほど分からないものでもないが、かといって激辛カレーのスパイスほど鼻につく刺激臭でもない。まさにほどよく、そして市井の信仰者の歩みとはどのようなもので、そこに神のタイミングがもたらされるならどんな素晴らしい「(霊的)化学反応」が起こるか。そんなことを信仰者未信者問わず、すべての人といろいろ語り合える傑作であることは間違いない。
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