長寿でも短命でも人生の価値は同じ
今回は、「コヘレト書を読む」の第15回(6章3~12節)と第16回(7章1~7節)でお伝えしたことを基に執筆します。特に6章と7章の以下の箇所を取り上げます。
6:3 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。5 太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。
6:10 これまでに存在したものは、すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。
7:1 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。2 弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
6章3~6節では、長寿を全うした人も母の胎で人生を全うした人も、「同じひとつの所に行く」とされています。そして6章10節では、母の胎で人生を全うした人にも「名前が与えられている」というのです。
こうしたことを前提にして、7章冒頭を扱う「コヘレト書を読む」の第16回を執筆しました。その際には、7章1~2節から、短い人生であったけれども香油にまさる名声を人々の中に残した、ある少年のことをお伝えしました。
「ぶどう園の労働者」の例え話
このような「短かった人生であっても価値は長寿の人と同じ」ということから連想する新約聖書の話は、マタイ福音書20章1~16節の、イエスが語られた「ぶどう園の労働者」の例え話です。その箇所を掲載します。
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
早朝からぶどう園に行って働いた人と、午前9時、12時、午後3時、5時にぶどう園に行って働いた人がいました。夕方、仕事が終わって報酬をもらうことになりますが、1日中働いた人も、1時間だけ働いた人も、同じ1デナリオンの報酬であったという話です。天の国はそういったところであるという例え話です。
この例え話は、人間の価値の同等さを説いているといわれています。ぶどう園で働いた人が、1日中働いても、1時間働いても、その価値が同等であるのと同じように、幼くして命を落とした人も、長寿を全うした人も、その人生の価値は同じだということに通じるでしょう。そうしますと、コヘレト書の6、7章との重なりが見えてくるのです。
翻って、人間の価値は、その寿命の長短だけでなく、さまざまなことにおいて、神の前ではすべて同等であるということではないでしょうか。人間の価値に後先はないのです。(続く)
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