勧善懲悪に抗する
今回は、コヘレト書7章15~22節を扱った「コヘレト書を読む」の第19回でお伝えしたことを基に執筆します。最初にその聖書テキストを掲載します。
15 この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。16 善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。17 悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。18 一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。19 知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。20 善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。21 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。
この箇所では、古代ギリシャ宗教に見られた「人は死後、地下において義人と罪人に分けられる。だから生きているうちに善いことをしなさい」という「勧善懲悪」の教えに、コヘレトが抗しているのではないかとお伝えしました。コヘレトは、「勧善懲悪」という倫理的な在り方よりも、「神を畏れ敬う」(18節)ことを説いているのではないかということでした。
ファリサイ派と徴税人の例え話
この箇所から私が連想する新約聖書の話は、ルカ福音書18章9~14節にあるイエスの例え話です。
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人は、週に二度断食をして全収入の十分の一をささげるなど、見かけでは正しい行いをしています。しかし、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と、他人を見下し自分を正当化する祈りをしています。コヘレトが述べている「善人すぎる」(16節)とき、人は自分を正当化する行為に進んでしまうときがあるのです。
イエスが「義とされて家に帰った」とした人は、そのようなファリサイ派の人ではなく、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った徴税人でした。徴税人は罪人であることを自覚していましたが、「憐れんでください」と謙虚に祈ったために義とされました。
しかしこの例え話は、自分を正当化する者が退けられ、謙虚な者が受け入れられるというような、人間の側の出来事によってのみ善し悪しがつけられるような話ではありません。そこには、「十字架によって命をささげ、私たちの罪の身代わりとなってくださったイエス・キリストの故に義とされる」という、神の側の出来事がありましょう。
神に依り頼む歩み
イエスの語られた話には、こういった「善行によって義とされるのではなく、神に立ち返った者が義とされる」という話が多いと思います。ルカ福音書15章11~32節の「放蕩(ほうとう)息子と兄」の話もそういったものです。これらは、コヘレトの説く「抗勧善懲悪」と共通していると思います。
しかし、コヘレトが「神を畏れ敬う」ことを第一にすることを説いているように、イエスの教えもまた、人間の側の出来事によるのではなく、私たちを愛して独り子をこの世に送ってくださった神に依り頼み、その恵みの内に歩むことが大切だと説いているのだと思います。
レント(受難節)の時を歩んでいますが、十字架の道を偲びつつ歩んでまいりたいと思います。(続く)
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