神の御業の絶対肯定
コヘレトが説くテーマの一つに「神の御業の絶対肯定」があります。この世の出来事がどんなに空(むな)しいと思えるときであっても、「今この時に神のなさってくださることに感謝して生きていこう」と、コヘレトは説いているのです。そんなコヘレトの考えを象徴的に表しているのが、「コヘレト書を読む」の第23回でお伝えした以下の箇所です。
〔善人にも悪人にも〕
8:14 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。〔神の手の中にある人生〕
15 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の、日々の労苦に添えられたものなのだ。16 わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、17 神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。9:1 わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。〔善人にも悪人にも〕
人間の前にあるすべてのことは 2 何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる。3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。4 命あるもののうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。5 生きているものは、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。6 その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにも、もう何のかかわりもない。
この箇所について執筆した際、〔善人にも悪人にも〕という内容の8章14節と9章1節b~6節が、〔神の手の中にある人生〕という内容の8章15節~9章1節aを囲い込む、インクルージオ(囲い込み)構造になっているとお伝えしました。
善人にも悪人にも区別なく「同じひとつのこと(その最たるものは死)が臨む」のは空しいことである。だが、それらのことはすべて「神の手の中にある」のであり、だからこそ「今この時を大切にして、日々与えられている食事を感謝して頂くこと(飲み食いすること)を大切にしようではないか」と、コヘレトは説いているのです。
愛敵の教え
この箇所から私が連想する新約聖書の話は、マタイ福音書5章43~48節に記されたイエスの「山上の説教」における以下の箇所です。
43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という「愛敵の教え」の根拠として、イエスは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と述べています。コヘレト書における「善人にも悪人にも同じ一つのことが臨む」と似たことをイエスは語っているのです。
コヘレトが「空しい」と言うとき、それは「神の御業が空しい」と言っているのではなく、「不条理なこともある世において、神とつながらないで生きていくことは空しい」と言っているのであろうと私は考えています。コヘレトは、善人にも悪人にも同じ不条理なことは起こるが、それを神の手の中にある人生の一断面と捉えて歩んでいくことを説いているのです。
「愛敵の教え」の根拠とするイエス
イエスはそれを一歩進めて、善人にも悪人にも等しく同じ自然が与えられることに触れ、それを「敵を愛する」という教えの根拠としています。私はそこに「新しい皮袋に入った教え」(マタイ5:17他)を読み取るのです。イエスの教えの根幹は「互いに愛し合う」ことです。それは「自分を愛してくれる人を愛する」だけではないのです。イエスの新しい教えは「敵を愛する」ことにさえ向かうものなのです。
愛敵の教えは、私たちにとって理解しにくいことですが、それはイエスの教えの頂点でありましょう。そして、「旧新約聖書の教えはひっきょうそこに行き着く」と言っても過言ではないでしょう。独り子イエスをこの世に賜った神の愛を思いつつ、旧新約聖書の教えの中に「真理」を見いだしていきたいと思います。(終わり)
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