本コラム執筆の契機
本コラムは、「イエスや新約聖書の著者たちはコヘレト書を知っていたか」という問いを軸に執筆しています。コヘレト書が正典となったのは、紀元90年代のヤムニア会議においてであるといわれています。新約聖書の多くは執筆が終わっている時代です。つまり、新約聖書が執筆された時代には、コヘレト書の重要性がまだ固まっていなかったということなのでしょう。
そのためか、新約聖書にはコヘレト書の直接引用はありません。しかし、「コヘレト書を読む」を執筆する中で、「コヘレト書には新約聖書と関連がありそうな部分が結構ある」ということを感じました。そして、説教者としてはその関連を整理しておくことが大切であることに気が付かされました。これは、コヘレト書を語る場合にも、新約聖書を語る場合にも言い得ることだと思います。
そういう理由から本コラムを執筆させていただいています。そのため、関連性といっても私の主観的な部分が強くなっているかもしれません。また、この件について具体的に論じられている書籍もありませんので、「私はこのように読んでいる」という観点での執筆になります。
くどくどした祈りの禁止
さて、今回はコヘレト書4章17節~5章2節と新約聖書の関連を見ていきたいと思います。最初にコヘレト書の当該箇所を掲載します。
4:17 神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は、供え物をするよりも、聞き従う方がよい。5:1 焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。2 夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。
「神殿に通う足を慎むがよい」というのは、「エルサレムの神殿には安易な気持ちで行くべきではない」ということです。「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」というのは、「くどくどした祈りをしてはならない」ということです。「愚者の声と知れるのは口数が多いから」というのは、口数が多いだけの祈りは愚か者の声でしかないということです。
私がこの箇所を読んで連想した新約聖書の箇所は、山上の説教の中のマタイ福音書6章7~8節の言葉です。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
くどくどした祈りは、イエスもそれを禁じているのです。祈りとは、天におられ、またインマヌエルの神として私たちと共におられる父なる神になされるものであり、それは私たちが願う前から神に知られているものなのです。
ファリサイ派批判なのか
私は、イエスのこの言葉の背後には、ファリサイ派批判があるように思えます。コヘレト書も小友聡氏によって「紀元前150年執筆説」が出されていますが(「【書評】『VTJ旧約聖書注解 コヘレト書』「反黙示思想の書」として読み解く新視点の注解書」参照)、もしそうだとすると、コヘレト書の神殿での祈りの背景にも、当時登場していたファリサイ派への批判があるのかもしれません。(続く)
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