30回にわたって連載してまいりました本コラムも、今回で最後になります。冒頭に私の大好きな讃美歌の一部を掲載させていただきます。
わたしたちを造られた神よ、
若い季節(とき)に知った。
あなたのみ名は すばらしい。わたしたちを担われるイェスよ、
巡る季節(とき)に知った。
あなたの愛は かわらない。(『讃美歌21』549番より)
この讃美歌の歌詞は、今回の聖書箇所などを元に作られているようです。それでは、今回のテキストを読んでまいりましょう。
11:7 光は快く、太陽を見るのは楽しい。8 長生きし、喜びに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。10 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と、言う年齢にならないうちに。2 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。3 その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。4 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。5 人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。6 白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺(つぼ)は割れ、井戸車は砕けて落ちる。7 塵(ちり)は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。(11:7~12:7、新共同訳)
12 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」 これこそ、人間のすべて。14 神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。(12:12~14、同)
コヘレト書全体の構造は、以下のようになっています。
1章1節 A
1章2節 B
1章3~11節 C
1章12節~11章6節 D(大枠に囲まれた内側)
11章7節~12章7節 C´
12章8節 B´
12章9~11節 A´
(A B C D C’ B’ A’というDを中心とする対称構造)
12章12~14節 E(対称構造の枠外)
今回のテキストのうち、11章7節~12章7節(C’)は、上記のように1章3~11節(C)とインクルージオ(囲い込み)を構成しているところであり、その枠外となる12章12~14節(E)は、コヘレト書全体のまとめです。今回は、このC’とEの箇所についてお伝えします。12章8~11節(B’とA’)は、本コラムの第2回と第3回ですでにお伝えしているため割愛します。
1章3~11節を取り扱った第4回は、「『無限』―太陽の下(もと)の循環―」という題と副題を付けさせていただきましたが、インクルージオの対称箇所である今回は、それに「永遠の神を知る」を入れて、「『永遠の神を知る』―太陽の下、無限の循環の中で―」という題と副題を付けさせていただきました。11章7節~12章7節もまた、1章3~11節と同じく、「太陽の下の無限の循環」について伝えられているのです。しかし同時に、今回は、人が与えられたその人生の中で、「永遠の神を知る」ことが大切であると説いているように思えます。「無限」にとどまらず、「永遠」とつながることの大切さが、付け加えられているように思えます。
この箇所は、「光は快く、太陽を見るのは楽しい」と切り出されています。これは1章3節の「太陽の下、人は労苦する」と、インクルージオにおいて対称になっています。どちらも太陽の下での出来事について言っています。1章3節以下は、続けて太陽の下の森羅万象について語られていました。今回は、太陽の下での「人生」について語られています。
人の一生を、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け」(11:9)と、若い日から書き始めています。「神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると」と続きますが、「裁き(ミシュパート / מִשְׁפָּט)」というのは、通常は「裁き」と訳されますが、ここでは「人生に介入する神の御業」というようなニュアンスに取って良いと思います。「若き日にあなたのするべきことをなすが良い。神はその時その時に御業を示す。それを受け入れよ」というニュアンスでしょう。
しかし、人生はいつまでも若き日であるわけではありません。「身をかがめ、目がかすむ」(12:3)老年の日が来るのです。「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける」(4~5ab節)。これらはすべて老年の日を表現したのです。
そしてついには「人は永遠の家に去る」(5c節)のです。永遠の家とは墓のことであり、これは死を意味しています。3章2節に「生まれる時、死ぬ時」とあり、人生という「時間(ゼマーン / זְמָן)」が示されていましたが、その終焉(しゅうえん)が訪れたわけです。3章を取り上げた第9回で、コヘレトの時の解釈について、「『時間』からさらに『無限』へと、時は広がっていくのです」と書かせていただきました。人生という「時間」に終わりが来ても、残された子孫は生き続けていきます。また、今生きている人生の前にも、先祖の人生があります。生命(いのち)は自分から始まったものではなく、必ずしも自分で終るものでもなく、無限に続いていくのです。
12章5節にはさらに、「泣き手は町を巡る」とあります。泣き手とは、葬儀の時に職業として泣く者といわれますが、彼らは町を巡るとあります。この「巡る(サーバブ / סָבַב)」は、1章6節に「風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける」とありました「巡る」と同じ言葉です。両者がインクルージオによる対の語であるとすると、町を巡る泣き手たちとは、「巡り続ける残された人たち」と取ることができます。一人の人生が死で終っても、生命(いのち)は無限に巡り続いていくわけです。冒頭でご紹介いたしました讃美歌には、「巡る季節(とき)に知った」とありました。人の一生は、太陽の下の無限の中での、「巡る季節(とき)」なのです。
つまり、1章3~11節(C)において、太陽の下で森羅万象が無限に巡り続いていることが伝えられていたように、インクルージオの対称箇所である11章7節~12章7節(C’)においても、「太陽の下」(11:7)で、人の人生が無限に巡り続けていることが語られているように思えます。
そして、このように「無限」の中で与えられた「人生」という「時間」において、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)と、「無限」より高次元の「永遠」の神とつながることが説かれているように思えます(冒頭の讃美歌も参照してください)。「神を畏れ、その戒めを守れ」(13節)と、この書が結論付けられていることも同じであろうと思います。コヘレトは冷笑家です。そのコヘレトにとって、「太陽の下」と表される「無限」は、空しいものなのです。しかし、その空しい「無限」の中で、「永遠なる神」とつながって生きていくことは、空しいことではないのです。それが、この書の結論であろうと私は考えています。
さて最後に、コヘレト書全体についての、私なりのまとめを書いておきたいと思います。まず著者であるコヘレトは、プトレマイオス王朝(紀元前305~30年)支配時代のイスラエルに生きた人でありました。「無限」「黙示」「勧善懲悪」といったギリシャ思想が流布している中で、そのような思想を「空しい」と冷笑的に見つつも、イスラエルにおいて信仰されている「永遠なる神」とのつながりを大切にしていた人であったということです。
6章までの第1部では、具体的に「日々の食事を神から与えられたものとして感謝していただく」「神から与えられたものを他者と分かち合って生きる」「神を畏れ敬って礼拝する」ことが挙げられていました。7章1節~9章6節の第2部では、「神から与えられている今を大切に生きる」ことが示されていました。9章7節~11章6節の第3部本論部分では、災難に遭っても「分かち合い」と「今」を大切にしなさいと説かれていました。コヘレトにとってそれらは、太陽の下という「無限の世界」の外側にある「永遠の神」とつながることなのです。「空しさ」の外側のことを強調するために、この書はあえて修辞技巧的に、「空しい」という冷笑的な言葉で書き出されているのだと思います。
今まで本コラムをお読みいただきましたことに感謝致します。私はこれからも、この書を学び続けていきたいと思います。皆様も是非引続き、「コヘレトの言葉」(新共同訳、聖書協会共同訳)・「伝道者の書」(新改訳、新改訳2017)をお読みください。
次回からはテキストを新約聖書に移し、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書、使徒言行録などから、「パウロとフィレモンとオネシモ」というコラムを連載寄稿させていただきます。
ご意見・ご感想などを、[email protected](臼田個人メール)にお送りいただければ幸いです。
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