今回は10章2~9節を読みます。
2 賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。3 愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす。4 主人の気持があなたに対してたかぶっても、その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。5 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで 6 愚者が甚だしく高められるかと思えば、金持ちが身を低くして座す。7 奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君侯(くんこう)が奴隷のように徒歩で行く。8 落とし穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を破る者は蛇にかまれる。9 石を切り出す者は石に傷つき、木を割る者は木の難に遭う。(10:2~9、新共同訳)
ここではまず、愚かさの存在が示されています。前回は、町を救った賢人の事例から、「尽くしきった知恵を、わずかな愚かさが駄目にしてしまうこともある」ということをお伝えしましたが、そこで示された「愚かさ」を、ここで説明していると思えます。
冒頭の「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」(2節)について、聖書においては、左右にそれぞれ意味があります。右は「力・幸運」を意味します。天に昇られたイエス・キリストが、「神の右に座しておられる」(マルコ16:19、ヘブライ1:3)とされているのはそのためです。一方、左は「災難・不運」を意味します。コヘレトは明らかに、愚者それ自体、あるいは愚者が高められることを「災難・不運」と捉えています。
「愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす」(3節)。歩いている者が自分は愚かだと言いふらしていたら、それは災難です。また次のように、「太陽の下の災難」として、愚かさがあることを示します。「太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで愚者が甚だしく高められるかと思えば、金持ちが身を低くして座す。奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君侯が奴隷のように徒歩で行く」(5~7節)。このように、コヘレトは愚かさを「災難・不運」と捉えているのです。
そして、愚かさについて語られた後、前回と同じように、知恵の行為が危機に遭遇することが語られます。「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を破る者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石に傷つき、木を割る者は木の難に遭う」(8~9節)。8~9節は当時あった格言と言われます。ここで言われている、落とし穴を掘る、石垣を破る、石を切り出す、木を割るということは、おそらく知恵を基とした行為ですが、その行為の途中で、落とし穴に落ちる、蛇にかまれる、石に傷つく、木の難に遭うといった災難に遭うこともあるということです。災難とは、「愚者の心は左へ」から考えれば、愚かさの結果と取れます。前回は、賢人が町を救ったという事例から、「尽くしきった知恵を、わずかな愚かさが駄目にしてしまうこともある」ということが語られましたが、8~9節からは「知恵の行為が、愚かさの結果である災難に遭遇することもある」ということが、当時の格言の中に見いだされているように思えます。
コヘレトのミドラシュ(ユダヤ教の注解書)によるならば、9章7節からコヘレト書の第3部とされていますが、3部ではどうも、知恵があっても、あるいは知恵を用いても、愚かさという「災難・不運」によって、それが駄目になってしまうこともあるということが言われているように思えます。これらのことは、今後どのように展開されていくのでしょうか。次回それを見てみたいと思います。(続く)
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