インクルージオ(囲い込み)
今回は「コヘレト書を読む(14)」でお伝えしたことを基に執筆します。当該コラムにおいて取り扱った箇所のうち、5章12節~6章2節を掲載します。
12 太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。13 下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない。14 人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。15 これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。16 その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。
17 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。18 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。19 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
6:1 太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。2 ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
この箇所は、インクルージオ(囲い込み)構造になっています。5章17~19節の「幸福なこと」を、5章12~16節と6章1~2節の「不幸なこと」で囲い込むことによって、「幸福なこと」を浮かび上がらせているのです。
概要を申し上げるならば、富に振り回されること、富によって称賛を得ようとすることは「不幸」であり、日々の飲み物・食べ物、また富や財宝を、神様からのプレゼントとして受け取って生きることが「幸福」であるということです。それが、インクルージオによって浮かび上がらせて示されていることです。
また、コヘレト書における「飲んで食べること」は、豪華な飲食ではなく、日々の暮らしにおけるささやかな食事を指しており、この書における「幸福」とは、富んだ生活とは対極のところに位置付けられているともいえます。
イエスの説教
この箇所を読んで私が連想した新約聖書の言葉は、ルカ福音書6章20~26節に示されている、以下のイエスの説教です。
20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
イエスは、富裕、飽食、冷笑、称賛を不幸とし、その対極を幸いと語っています。これは、コヘレトの「不幸と幸福」についての価値観と相通ずるものがあるように思えます。
また、コヘレトが「不幸」を述べることで「幸福」を浮かび上がらせているのと同じように、イエスも「不幸」を語ることによって、貧困などの困難な状況にある人々への神の祝福を強調するという、共通したレトリカルな表現方法を用いていることも感じ取ることができます。
コヘレト書と新約聖書のこうした共通点を見ていくことも、聖書を読むことの楽しさの一つではないでしょうか。(続く)
◇