前回、旧約外典のエノク書25章から紀元前3世紀の黙示思想を引用しました。ところで、このエノク書の25章と同じく、紀元前3世紀に書かれたとされる22章には、次のようにあります。
そこでわたしはそのとき、(み使いラファエルに=筆者注)彼について、またすべての者のさばきについてたずねてみた。「なぜ(これらの窪地は=本文注)ひとつひとつ区切ってあるのですか」。彼は私に答えて言った。「この三つ(の区切り・窪地=本文注)は死者の霊魂をより分けるためのもので、同様に義人の魂も別にしてあり、これはその上に光がきらきらする水の泉である」。同様に、罪人が死んで地中に埋められるときのために、区切りができている。彼らは在世中さばきにあわなかった。ここに、大きな悲痛のなかに、彼らの魂は別にしてへだてられ、大いなるさばきと刑罰の日を迎える。のろいを発する者には悲痛が永遠に(ふりかかり=本文注)、彼らの魂には復讐(ふくしゅう)が(ふりかかる=本文注)。彼は彼らをここに永久につないでおかれるだろう。(エチオピア語エノク書22章8~11節、『聖書外典偽典4 旧約偽典2』)
ここには「地下における死者の魂は、生前の善人と悪人では異なる」ということが書かれています。『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』(T・F・グラッソン著)によりますと、この思想はオルフェウス教の影響を受けています(同書50~57ページ)。『オルフェウス教』(レナル・ソレル著)によりますと、オルフェウス教は紀元前6世紀の古代ギリシア世界に発達した宗教で、輪廻転生思想を持っています。人は死ぬとその魂は一定期間地下において暮らし、再び地上において他の人間となるという思想です。地下にいる間は、生前の地上での生き方によって、義人と罪人に分けられるという思想です。「生きているうちに善いことをやっておきなさい」という、いわば「勧善懲悪」の教えです。
前掲の『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』によるならば、この思想がエノク書に引用されて、エノク書22章のような内容が伝えられているようです(同書53ページ)。前回お伝えしましたように、聖書とその周辺書物の「黙示思想」は、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に登場したともいわれますが、この『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』によるならば、「黙示思想は、紀元前4世紀にオルフェウス教などのギリシア思想の影響によって出現したと考えられる」とされています(同書59ページ)。
紀元前3世紀に書かれたとされるコヘレト書を深く学ぶにあたっては、このことは大変興味深いことです。現在の私には、コヘレトとオルフェウス教の関係を皆様にお伝えする力はありません。しかし、コヘレトはオルフェウス教のようなギリシア思想に対して、防波堤を張っていたのではないか、とも思えるのです。コヘレトが黙示思想に対して一線を画していたのは、ギリシア思想に対抗するという理由によるのかもしれません。あるいは前回お伝えしたように、「終末に逃げるのではなく今を生きる」ことを大切にしているためかもしれませんし、複合的なものであるのかもしれません。
さてそれでは、今回の学びに入ります。
15 この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。16 善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。17 悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。18 一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。19 知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。20 善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。21 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。(7:15~22、新共同訳)
この箇所は、エノク書に見られる、オルフェウス教の「死後に地下において義人と罪人に分けられる」という「勧善懲悪」の思想に、コヘレトが抗しているようにも思えます。「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」(15節)、「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」(20節)。こういった点は、「勧善懲悪」思想ではありませんので、オルフェウス教の思想とは相いれないように思えるのです。コヘレトがエノク書やオルフェイス教を知っていればということが前提となりますが、紀元前3世紀のユダヤ教文書であるエノク書(1~36章)や、この時代に流布していたオルフェイス教の思想を、コヘレトが知らなかったとは考えにくいでしょう。
コヘレトは「勧善懲悪」という倫理的な在り方よりも、「神を畏れ敬う」(18節)ことを優先させているのです。善人として生きるよりも、「善人すぎず悪人すぎない道」を生きることを説き、神を畏れ敬うならばそれができると言っているのです。「善人すぎる」(16節)とき、人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(ルカ18:11)と祈ったファリサイ人のようになってしまうことがあるのです。イエスの教えの中で、神が義とされたのはこのファリサイ人ではなく、「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください(同13)と祈った徴税人でした。「あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ(22節)とコヘレトが言うのは、この徴税人の祈りのような、「私も罪人であること」を知った歩みをするように勧めているように思えます。
3月6日の「灰の水曜日」からレント(四旬節、受難節)に入りました。私たちは教会暦でのこの季節を特に、私たちの罪のために十字架にかけられたイエス・キリストを偲びつつ、歩んでまいりたいと思います。(続く)
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