23 わたしはこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それはわたしから遠いことであった。24 存在したことは、はるかに遠く、その深い深いところを誰が見いだせようか。25 わたしは熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であることを、悟ろうとした。26 わたしの見いだしたところでは、死よりも、罠(わな)よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷(かせ)。神に善人と認められた人は彼女を免れるが、一歩誤れば、そのとりことなる。27 見よ、これがわたしの見いだしたところ、――コヘレトの言葉――、ひとつひとつ調べて見いだした結論。28 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった。29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。(7:23~29、新共同訳)
コヘレトにとって、「知恵」とは何であったのでしょうか。彼にとってそれはどういう存在であり、どのような位置付けがなされていたのでしょうか。正直申し上げますと、私はまだこのことをしっかりと整理できていません。今まで申し上げてきましたように、コヘレトは3つのことを空しさ(ヘベル / הֶבֶל)の外側に見ています。それは、1)日々の食事を神からのプレゼントとして感謝していただくこと、2)他者と助け合って生きること、3)神を畏れつつ神殿祭儀(礼拝)をすることです。この3つのことは明らかにヘベルの外側に位置付けられています。これらはヘベルの対極である、トーブ(טוֹב / 良い、幸福、満足)な事柄なのです。しかし、知恵がヘベルとトーブのどちらに位置付けされているのかということが、まだ整理されていないのです。
すでにお伝えしてきましたが、知恵は1章においてはヘベルに位置付けられています。「わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」(16~17節)。ここでは「風を追うようなことだと悟った」と結ばれていますが、コヘレト書では、この「風を追うようなこと」は、ヘベルと同義で使われています。しかし7章では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい。知恵はその持ち主に命を与える、と」(11~12節)、「知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする」(19節)と、知恵はトーブとして伝えられているように思えます。
7章から始まるコヘレト書の後半は、コヘレトが「知恵」と向き合い、その本質を問うているようにも思えます。今回の本文は、「わたしはこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それはわたしから遠いことであった」(23節)という書き出しで始まります。ここでコヘレトは、「知恵を尽くす」という方法で知恵を客観視し、知恵に対する問いを開始しているのです。
続けて、「存在したことは、はるかに遠く、その深い深いところを誰が見いだせようか」(24節)とあります。「存在したこと」と訳されている「マー シェハヤー」(מַה־שֶּׁהָיָ֑ה)は、コヘレト書では、この箇所までに3回出てきます。それぞれ「かつてあったこと」(1:9)、「今あること」(3:15)、「これまでに存在したもの」(6:10)と訳されていますが、すべて「あったこと」という一言の捉え方で良いと思います。英語訳聖書を見ますと、多くは has been と現在完了形で表現されています。英語のこのニュアンスがより近いと思います。それはコヘレトの概念でいうならば、「太陽の下で見た出来事」でしょう。そしてそれは「はるかに遠い」ことであり、また「その深い深いところは見いだせなかった」というのです。深いという言葉が2度繰り返されているところがポイントです。これは最上級の表現方法です。ですから、「最上級の深いところは見いだせなかった」ということです。コヘレトにとって、太陽の下で見た出来事は、「深いところ」までは到達できたのですが、深い深いところには到達できなかったのです。
コヘレトはこのことを意味深長に表現しています。「千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった」(28節)。一見すると、「男の中には一人は良い者がいるが、女の中には一人もいない」と解釈することができ、「コヘレトは女性蔑視者なのではないか」とも取れる表現の仕方です。昨年末に発刊された聖書協会共同訳はここを、「千人の中に一人の男を見いだしたが、これらすべての中に一人の女も見いださなかった」と訳しています。ヘブライ語原典に忠実な訳です。この訳において、「千人」を「太陽の下で見た出来事」に置き換え、「男」に「深いところ」、「女」に「深い深いところ」という意味を補ってみると、よく分かります。
「『太陽の下で見た出来事』の中に、『男』なら一人くらいは見いだしたが、一人の『女』は見いだせなかった」、つまり「『太陽の下で見た出来事』の中に、男という『それなりに深いもの』は見いだせたが、女という『深い深いもの』は見いだせなかった」ということなのだと、私はこの箇所を解釈しています。
このように見るとき、コヘレトが女性蔑視者であったという解釈は当てはまりません。むしろ女性を優位に置いているように思えます。これは、コヘレトが向き合っている「知恵」(ホクマー / חָכְמָה)が女性名詞であることとも無関係でないように思えます。知恵によって到達するはずの「深い深いところ」を、女性として表現しているようにも思えるのです。
コヘレトは続けて、「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」(29節)と言います。「深い深いところは見いだせなかった。しかし私は、『神は人間を単純に造ったが、人間は、私がそうであったように、深い深いところを探索したがるものなのだ』ということを見いだした」と、コヘレトが言っているのではないでしょうか。17世紀の哲学者デカルトが、すべてを疑うことで探索を始め、疑えない「我思う、ゆえに我あり」という命題を見いだしたのと似ているようにも思えます。
私はコヘレトがここで初めて、真の「知恵」を見いだしたように思えるのです。そしてこのことは、新約聖書におけるパウロの思想に通ずるものがあるように思えます。パウロは、文字の律法の中に深い深いところを見いだそうとしましたが、結局見いだせなかったのです。しかし、十字架のイエス・キリストを見いだすことによって、それらをすべて塵芥(ちりあくた、フィリピ1:7)とした、つまり文字の律法の中に真(まこと)のものはないことを見いだしたのです。けれどもそれこそが、パウロにとっては真の「神の知恵」(コリント一1:24)だったのです。
私たちは今、レント(四旬節、受難節)の時を歩んでいます。私たちの真の救いである神の知恵、イエス・キリストの十字架を見つめて歩んでまいりたいと思います。(続く)
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