不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(11)
※ 前回「転生なきビジョンはない(その3)」から続く
誰がこんな大それたことを
悪霊どもは2千頭の豚と共に海の中へ。そしてどうなったのかは分からない。悪霊は溺れるのか、悪霊は死ぬのか、と素朴に疑問に思うのであるが、大切なことは、それでこの人とこの町の人々はどうなったか、である。町の人々は何事が起こったのかと、イエスの元にやってきた。そして見たのである。そこには何と、あのレギオンを宿した人が衣服を着て正気になって座っていたのである。そして人々は恐れたのである。この恐れというのがやはり2千年前の感覚だと思う。夜昼関係なく墓場で叫びまくり、石で自分を傷つけていた人が、今まで裸で一人、孤独の中で暴れまくっていたというのに何ということかと思ったのだろう。
そもそも町の人々は服を着て座っているのを見て恐れたわけであるから、そうか、その人は裸で暴れていたのか! ならば誰が服を着せたというのかと疑問に思う。そりゃ、イエスに違いないのだ。そして私はある出来事を思い出した。そういえば、イエスがゲツセマネの園で捕えられたときに裸で逃げた若者がいたぞと(マルコ14:51)。彼はその後どうなったであろうか。そうだ、レギオンと同じように服をまとっていたではないか。それはどこで? マルコによる福音書16章1節以下を参照のこと!
結果として失うものは大きい
町の人々は恐れをなした。そして強いて言えば、やはり経済的な大損失を被ったということになる。それと同時に人々は考えたに違いない。「たかが一人のためにここまでするのか?」という驚きだ。たった一人のために豚2千頭を犠牲にしたのだ。あきれもしただろうし、一方でイエスがここまでするというある種の覚悟というか、その人生観に驚嘆するということもあったであろう。うがち過ぎかもしれないが、その土地で他にもいるであろうレギオン同様な人に対しても同じようにやられたらたまったものではないのだ。また、こんな大それたことをする人に向かって損失補填をしろとも言えないだろう。だから結局は「ここから去ってくれ」と言うしかないのである。一人の人間の人生が助けられたとしても、その代償として多大なものを失うとしたら、どうにもそのまま受け止めることができないというのが、実のところわれわれ人間の現実なのではないだろうか。
人の救いは「けち」をつけられないもの
2千頭の豚が犠牲となった。それほどにレギオンの追い払いには犠牲が必要であり、われわれがイエスのしたことをまねるというのは難しい。教訓めいたことは言いたくはないが、一人の人間が抱える「邪」を追い払うことの対極にある犠牲の重さというものを感じる。一人の人間が墓場から自分の家に帰るということ、そこにどれだけ大きな価値があるかということである。軽々しく考えてはならないのだ。実に大きな値打ちがあるということ、そして結果としてその大きな代償を町の人たちも背負うことになる。それは無理やりではあるが、その重さを彼らもまた痛感するのである。痛感して受け入れるしかないのではないか。そう、レギオンから助け出された人が帰宅するのを邪魔する者は誰もいなかったのだ。「お前のせいで俺たちは大損をした」と、今の時代ならヤフコメあたりで散々文句を言う人もいるかもしれない。たとえ心の中にそのような思いがあったとしても、この時代の人はそんなことは口にしないのだ。その2千年後に生きるわれわれはどうだろうか。平気で口にしてしまう愚かさと下品さに驚くばかりじゃないか。
転生は必要なのだ
転生とは、通常は別の世界に移って新たな営みを始めることを意味する。魔界転生とは、魔界で生きることを意味する。レギオンを宿していた人は別の世界に移るわけではない。いるべき場所に戻っただけである。だから転生という言葉はふさわしくはない。転生したのは実のところ悪霊たちの方である。とにかくこの人からは去ったのだ。であるなら悪霊たちは別世界に移って、もはやこの世は安泰かといえば、どうもそういうことにはなりそうもない。この世から「邪」が消え去ることはありえないことを、われわれも知っている。まだまだそこら中にうじゃうじゃいるのだ。新たな犠牲者を求めて時代から時代へ、場所から場所へ転生していく。それが「邪」の正体だ。残念ながらレギオンがまたこの人のところに戻ってこない保証はない。であるなら、真の意味の転生が必要だ。それも極めて宗教的な意味での「確固たる転生」がこの人についても必要なのだ。
転生なきビジョンはない
そろそろ結論にしよう。では、レギオンがまたこの人に戻らない方法とは何であろうか。それは、このイエスの出来事の中に生き続けることである。イエスがなしたこの不思議で大げさで大胆な「驚くべき出来事」の中に生きることで生き続けることしかないのだ。その新たなる道へ、イエスは助けられた人を導くのである。家に帰って自分の身に起こったことを、神の憐(あわ)れみをことごとく伝え続けること。それが転生なのだ。つまり、イエスがなしたこの偉大な出来事の続きを生きるということである。
残念ながらこの人のようにひとたび「邪」に取り憑(つ)かれた人に対して世間の目は冷たい。いつかまたレギオンが戻ってきて暴れ出すのではないかと疑っている。今日さえもそうである。悲惨は繰り返されると思っている。しかし、それはまったく宗教的ではない。信仰的でもない。それは単なる人間の疑いである。宗教行為とは、転生が維持されることを受け入れる行為である。われわれキリスト教徒は、イエス・キリストの出来事がどんな形であれ、今日においても繰り返されることを願い、また信じようとしている。転生が維持されることを願い続ける。そのために必要なことは、その根本にある出来事を風化させないこと、つまり語り続けることである。キリスト教的スピリチュアルケアとして伝えるべきことは、「神の驚くべき出来事に身を置き続けることは幸いなのだ」としておこう。聖書の言葉で締めくくろう。
その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣(の)べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。(マルコ5:20、フランシスコ会訳、強調は筆者)
(終わり)
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