あなたは真理の探求者ですか。神の神秘と、神が造られたその世界を理解したいと望んでいますか。もし答えが「はい」なら、あなたはきっと次の3つの質問を自分に問い掛けているでしょう。
「私は誰か」
「私はなぜここに存在しているのか」
「私はどこに行くのか」
ほとんどの人は「私は誰か」という最初の質問に、自分の家族や文化、国籍(例えば、私の名はジョーンズ、私はミレニアル世代、私は英国人など)で答えます。もっと年齢を重ねると、特定の思想、哲学、経歴や活動を付け加えます(例えば、私は実存主義者、私は環境保護論者、私は整体師、私は保守派、私は人間主義者など)。しかし、これだけのことを並べても、最も重要なパズルのピースが欠けています。それは創造主と関係を持つことによって与えられる絶対的なアイデンティティーです。
「私はなぜここに存在しているのか」という質問に対しては、人間の通常の行動である、教育のため、仕事のため、物質的利益を得るため、結婚のため、子どものため、家の購入のため、職歴の追求のためなどの答えが挙げられるでしょう。しかし、どれも究極的な答えではありません。それらはただ一時的な追求と利益にほかならないのです。もっと何か別のものがあるはずです。
最後に、私たちの心の上に黒い雲のように漂っている大きな質問「私はどこに行くのか」です。思い切って時間の壁というものを超えて、永遠を見つめると、私たちに必要なのは、もっともらしいただの理論ではなく、確信です。私たちには、薄っぺらな理論的概念ではなく、絶対的な確信を与える霊的な出会いが必要なのです。
闇とは、私たちが真理を発見する前の心の状態をよく表している表現です。私たちは闇の中で生まれました。それは感覚的意識という闇です。最初、私たちは五感を通してくる情報によってのみ人生を定めてきました。幼少期から大人に至るまでの長い年月をかけて、それらの感覚を発達させ、成長させてきました。その過程で、人は自分が経験した範囲においてのみ、物事を判断する傾向にあります。しかし、そのような感覚に頼ることは間違いです。私たちの動機が肉体的な欲求を満たすことだけだとしたら、私たちの最も重要で永久的な部分は空っぽのままです!
この世の人生は、昼の後は、夜の闇がやってくると教えます。同じように、人類に覆いをかける霊的な闇に直面している人は、答えである光が得られないと考えて失望する必要はありません。霊の世界においては、真理を聞いて受け入れることができる人には、闇の後にも光はやってくるのです。
子宮の中の胎児、卵子の中の胎芽、種から発芽し始めた小さな芽などのすべての生き物が、この世界に頭を下げた状態で生まれてくるというのは何とも啓示的です。おそらく、もしかすると、これは私たちすべてが、ただ一つの最も重要な目的のために造られたことを、創造主がほのめかしているのかもしれません。それは、地球の寄留者としての私たちのすべての日々を、神の御前で「頭を下げ」ほめたたえるということです。
中には神の存在を疑う人もいますが、自然そのものが、神という観念を私たちの心に刻み込みます。花の繊細な美しさ、人間の体の複雑さ、宇宙の広大さ。それらについて思いめぐらすとき、すべてのものを造った偉大な存在に畏敬の念を抱かずにはいられません。ミクロの世界からマクロの世界まで、被造物は感動的な歌を歌っています。太古の礼拝者が、このような美しい言葉を書いたことが理解できます。
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても。(詩編19:1~4)
そうです、この「従属宣言」は世界中の人が聞いています。最も単純な人も、最も賢い人も、耳のある人なら誰でもです。私たちが完全になるためには、自分の真の源を発見しなければいけないことを私たちは心の底で知っています。中にはそれを本当に強く感じている人もいるのです。
この深い切望から宗教というものが生まれました。どの宗教も同じような願望から始まったのだから、すべての宗教は皆、同じ神へつながる、ということになります。そうですよね? それは理論的であるし、愛があるように聞こえますが、はたして本当でしょうか。すべての宗教が「一致」しているかどうかを試す一つの方法は、それぞれ違った世界観を持った信者に、3つの大きな質問をしてみることです。その答えは著しく異なっています。
例えば、「私は誰か」という質問をしてみましょう。
仏教徒はこう言うでしょう。
「あなたは単なる、原因と結果による産物です。神の創造物ではありません。思考を持っただけの動物ですが、道徳的判断をする能力があり、その判断が長期的に良い結果も悪い結果ももたらします。永遠に生きるなどという思いで自分を楽しませてはいけません。死ねば、あなたは個性ある一人の人格として存在しなくなるからです。あなたには魂などありません。しかし、霊的に進歩を遂げれば仏陀になれます」
グノーシス主義者はこう提示するでしょう。
「物質は悪です。それは、より劣る神である、エホバという名の創造者によって造られました。ですからあなたの物質的な体は悪です。それを克服するためには、あなた自身の中にある神性の輝きを発見しなければなりません」
ヒンズー教徒はこう提案するでしょう。
「あなたの本質は神です。個々の魂(アトマン)は、大霊(ブラーマン)の体現です。あなたは何千回も生まれ変わって、進化し続けているので、人生の旅路をしている個々の人格は本当のあなたではありません」
イスラム教徒はこのように助言するでしょう。
「あなたには2つの部分しかありません。それは体と魂です。人間は神の子どもになることはできません。神に子孫はいません。神は人の中には住みません。あなたは神のしもべとなるために召された、ただの人間です」
サイエントロジストはこう主張するでしょう。
「あなたは3つの部分からなっています。体、心、セイタン(精神)。セイタンとは、肉体になる前の状態の時に、元々意識的に存在していた、妨げられることがない神のような能力です。しかし、それはMEST(物質、エネルギー、空間、時間)の中に捕らえられてしまったのです。あなたは、よりハイヤーセルフ(高次元の自己)であるセイタンを再発見しなければいけません」
神道信者はこう提案するでしょう。
「あなたは神々の子孫です。ですからあなたは生まれつき善で神聖な性質を持っていて、悪の汚れが取り除かれたとき、それが現れ出ます」
道教信者はこう提案するでしょう。
「あなたの中には10の魂があります。陽気(人のより優れた霊的、知識的要素)からなる3つの魂(こん)と、陰気(人の性質の内部のより劣った部分)からなる7つの魄(ぱく)です」
ゾロアスター教徒はこのように忠告するでしょう。
「あなたは三位一体の存在で、体、魂、フラワシ(善の神であるアフラ・マズダーと一体となったハイヤーセルフ)からなっています。フラワシは、すべての人間の中に存在するアフラ・マズダーのことで、それはあなたの良心です。正しく生きるためには、自分のフラワシに助言を求めなければいけません」
キリスト教徒(イエスに真に従う者)は、「私は誰か」という質問に次のように答えるでしょう。
「あなたはこの世に堕落した性質を持って生まれてきて、罪と咎(とが)のため霊的に死んでいました。その時点でのあなたのアイデンティティーは、罪人で闇の子です。しかしあなたの赦(ゆる)しと救いのためにイエスが十字架の上で死なれたことを認め、死からよみがえった救い主を心に受け入れるなら、あなたは新しく生まれ変わり、神の霊があなたの中に入り宿ってくれます。その時点で、あなたは光の子、全能の神の子となるのです。これはただの理論ではなく、現実です」
もしあなたが「私はなぜここに存在しているのか」という質問をするなら、さまざまな宗教の支持者は、次のような答えをするでしょう。
仏教徒
「あなたが涅槃(ねはん、ニルバーナ)に達するには、8つの王道に従わなければなりません。それは自我への執着、間違った信念、苦悩からの自由で、人生においてのあなたのゴールです。それを達成する最も良い方法は、僧侶になり、人里離れたところで瞑想の人生を送ることです」
グノーシス主義者
「あなたはグノーシス(秘教的知識)を学ぶことにより、悟りを得ることに励まなければなりません」
ヒンズー教徒
「あなたは、輪廻転生とカルマの影響から解き放たれるために、完璧な人間にならなければいけません。それが人生においてのあなたのゴールです」
イスラム教徒
「あなたは救われるためには、イスラム教の5つの柱(五行)を実行し、コーランに従わなければいけません。それが人生においてのあなたのゴールです」
サイエントロジスト
「あなたは『クリアー』(潜在的に認知している否定的な記憶痕跡から解放された状態)にならなければいけません。そして『クリアー』になったら、地球を『クリアリング』(清掃)する過程に参加しなければいけません。これらが人生においての、あなたの2つの主なゴールです」
神道信者
「神々をなだめ、亡くなった先祖に崇敬を表し、神道の教理を守るなら、あなたは救いに至るでしょう。これらが人生においての、あなたの3つの主なゴールです」
ゾロアスター教徒
「すべての人の運命は、その人がアフラ・マズダー(善の神)に従うか、アングラ・マインユ(悪と闇の神)に従うかで決まります。あなたのゴールは前者に従うことです」
キリスト教徒(イエスに真に従う者)は、「私はなぜここに存在しているのか」という質問に次のように答えるでしょう。
「一度あなたが新生し、自分の人生を主イエス・キリストに明け渡したなら、あなたのゴールは完全なる献身です。その人生は清く礼拝にあふれ、他の人たちに福音を伝えるものです。そして神の御心を祈り求め、それを実行します。神はあなたに特定の目的を持っていて、それによってあなたは他の人に仕えることができるようになります。そうすることによって、あなたは永遠の実をつけ、あなたの地上での時間が神に栄光を与えるものとなるのです」
もしあなたが「私たちはどこへ行くのか」という質問をするなら、その答えには多くの異なった見方が含まれるでしょう。
ある宗教やある種のスピリチュアル系は、複数回の霊魂の生まれ変わりを教えています。また、一度の人生と一度のよみがえりを教えているところもあります。また別のものは、生まれ変わりもよみがえりもなく、より高いレベルへ魂が進化することを教えているところもあります。
ある宗教は、あなたは最終的に形のない偏在する霊となり、偏在する非人間的な宇宙の生命力と意識水準に同一化すると教えています。また他の宗教は、あなたは天上界の姿を持ち、自分だけの神と永遠の関係を持つと教えています。
ある宗教は、進化を重ねる霊的旅路において、魂は複数の一時的な地獄と天国を通ると教えたり、またある宗教は、永久的な目的地があると教えたりします。
キリスト教徒はこう提示するでしょう。
「イエスを人生の主とし、神に自分を明け渡した誠実な神の子たちは、死ぬと直ちにパラダイス(天国)に行きます。聖書は『体を離れること』は『主のもとに住むこと』(2コリント5:8)と言っています。イエス(イェシュア)が、この時代の終わりに栄光を帯びて戻ってくるとき、死んだ聖徒たちの魂は、イエスと共に戻ってきます。その時、彼らの体はよみがえり栄光を受けます。同時に、イエスが戻ってくるとき、生きている信者たちは一瞬で引き上げられ、イエスの似姿に変えられます。その後イエスはこの地上に、はっきりとした形でご自分の王国を建てられます。そしてイエスの民は、イエスと共にパラダイスのように美しく完璧に回復されたこの世界を統治します」
最後の4つ目の質問
この時点で、信頼し得る結論に至るためには、4つ目の質問をする必要が出てきます。「真理とは主観的か客観的か」という質問です。その答えは、異なった宗教の中で提示されたさまざまな意見を、私たちがどのように処理するかで決まります。それぞれ互いに矛盾する意見が、すべて正しいといえるでしょうか。人気のある多元論的考えは、たとえそれらが一致しなくても、それらすべての考えはすべて正しくあり得るといいます(古いことわざに、「あなたはあなたの真理を持つことができ、私は私の真理を持つことができます。私たちは同時に正しくあり得るのです」というものがあります)。このようなことが可能でしょうか。この最後の質問に対し、それにふさわしい例をもって答えましょう。
地球を含む太陽系は一つだけです。しかし、その性質については長年異なった考えが提示されてきました。例えば、2世紀にプトレマイオスという天文学者が、地球は太陽系の中心にあるという説を唱えました。動くことのない星々を背景に、太陽、月、その他の惑星がすべて地球の周りを回っているというものです。約千年後、ポーランド人のニコラス・コペルニクスが反対の説を唱えました。太陽系は太陽を中心としていて、すべての惑星は太陽の周りを回っているというものです。
この2つの説を、同時に真実だとすることはできません。一方が正しければ、もう一方は間違っています。当然、現代の天文学はコペルニクスの説を正しいとしていますが、それは当初バカにされ否定されていました。もしプトレマイオスとコペルニクスが同時期に生きていて、自分たちの信念について話し合ったとしたら、コペルニクスはプトレマイオスに、「真理は相対的です。真理は主観的です。あなたはあなたの真理を持つことができ、私は私の真理を持つことができます。私たちは同時に正しくあり得ます」と決して提案しなかったでしょう。
異なった考えを一緒にしようと考えること自体おかしなことです。一つの考えが受け入れられるには、もう一つの考えは否定されなければなりません。コペルニクスは、プトレマイオスの信念に対しもう一つの選択肢を提供したから、彼は愛がなく、頑固で不寛容だったといえるでしょうか。まったくそんなことはありません。彼らは2人とも真理を追究する者たちでした。そして、最後には真理が勝利したのです。
そしてまた、霊的に究極の真理の道を見つけた人たちが、自分たちの信念を熱心に高く掲げているのを見て、彼らには愛がなく、批判的で不寛容だというレッテルを貼るべきではありません。それとはまったく逆で、彼らには、他の人を隠されていた同じ道に導く義務があるのです。それは真理への誠実な愛と、憐(あわ)れみの愛のためなのです。根本にある動機は、高慢な不和をもたらす心ではありません。へりくだって心配する心なのです。
自然界では、科学が真理は客観的であると証明しています。認識されていてもいなくても、それはすべてのことにおいて同じです。事実は事実であり、それらは個人の意見によって生まれたのではありません。熱心な探求者たちによって発見されたのです。霊的な世界においても、真理が客観的だというのは道理にかなっています。
それを見つけた人たちは、人生においての充足感や平安、変化を見いだすことにより祝福されるのです。どうして彼らが黙っていられましょう。そのような発見は分かち合わなければなりません。そのためにこのウェブサイト(英語)があるのです。愛によって真理を明らかにし、夜の暗闇から、新しい日の夜明けに誰でも導くことができるのです。しかもそれは、とても単純なことなのです。
イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。
本気でそう言われたのです。イエスにご自分を表してくれるように頼んでみてください。イエスは答えてくださいます。
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