ヨガに没頭していたころ、イエスが私生児であったという説を聞きました。マリアが誰か(おそらくヨセフ)と不法な性行為をして、結婚していないときに身ごもったというものです。
私のヨガの教師たちは、神は非人間的な「生命力」なので、ご自身で処女のところに来て、子宮に種を宿すというような身体的な方法で自身を表すことはないと主張しました。しかし聖書ははっきりと「聖霊が実際におとめマリアのところに降り、彼女を身ごもらせた」と教えています。その結果生まれた子どもは「神の子」(ルカ1:35)と称されました。この超自然的な誕生は、イエスを、後にも先にもこの世に生まれたどの人間とも異なった存在にします。これは、多神教的で一元論的な世界観が言う一般的な神聖さだけではなく、独特な神としてイエスを表すことになります。
現代に存在する11の主な宗教のうちの5つ「仏教、キリスト教、ジャイナ教、道教、ゾロアスター教」はすべて、創始者が誕生したとき、超自然的な出来事があったと主張しています。仏陀はもともと天上の存在で、預言的な夢を受け取った母親を通して生まれました。ジャイナ教は、その創始者であるマハービーラが、王族である母親の子宮に超自然的に宿り、罪のない人生を送ったと教えています。
最も驚くべきは、道教の老子に関する話です。伝説によると、彼は母親の子宮の中に72年間いた後、完全に成熟した、賢く、年を取った哲学者として生まれてきました。ゾロアスターと彼の後に続くすべてのゾロアスター教の救世主は、処女から生まれたとされています。ですから、この種の教えはキリスト教に限ったことではないのです。
イスラム教は、神が子を「もうける」というキリスト教の教えに強く反論しています。しかし、その主張は非常に意味論的といえます。なぜなら、コーランはこう宣言しているからです。「言え、彼は唯一の神である! 永遠にすべての人に求められている神! 彼は子をもうけたり、自分自身も誰かから生まれたりするということはない。彼に相当する者はいない」(コーラン112、著者によって強調、コーラン3:42~47、19:22~36参照)。これは自然で物理的な意味では、まったく事実です。神が実際に女性と関係を持って子を「もうける」ことは決してありません。しかし、キリスト教の主張に似ているところは、イエスが「聖霊の息吹によって」おとめマリアから生まれたとコーランが言っていることです。またイエスは罪のない人生を送ったとも言っています。そして7カ所でイエスを「神の霊」と呼んでいます1。それなのに、イエスは、普通に生まれた預言者モハメッドよりも低い存在とされているのです。
聖書によると、処女から生まれることは、真の救い主としての必要な条件でした。イザヤ書7章14節は「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル(神はわれわれと共におられる)と呼ぶ」と預言しています。イエスはインマヌエルと呼ばれる聖なる子でした。イエスは、「神はわれわれと共におられる」方、おとめから生まれた方なのです。ヨハネによる福音書1章14節と3章18節では、「父の独り子」「神の独り子」と称されています。このことから、この聖なる身分を主張している他の者たちは皆偽者だということになります。
なぜそのような特別な霊的身分が重要だったのでしょうか。罪深い人類に赦(ゆる)しを与えるためには、罪のない身代わりとなる犠牲が必要だったからです。もしイエスが自然に身ごもって生まれた人なら、この役目を果たすことができなかったでしょう。聖書は、すべての人間は罪のある存在として身ごもられたと教えています(詩編51:5参照)。言い換えると、すべての親が罪を持っているので、受胎によって罪が入り込むということです。この結果、罪の衝動に対して意識的に拒否するかしないかの選択ができるほど成長する前から、罪深い性質は子どもの中にあるのです。論理的に正しい言い方はこうです。人間は罪を犯すから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。最初の人、アダムの罪の性質が、彼のすべての子孫に及んだのです(ローマ5:12)。
罪のない聖霊によって身ごもり、イエスは罪のない性質を持って生まれてきました。ですから、イエスは罪のない人生を送ることができたのです。それは今までどんな人間もなしえなかったことです。これを理解することがキリスト教の基盤であり、その教えをひもとくカギとなっています(へブル4:15、7:26~27、1ペテロ1:19、2:22、1ヨハネ3:5)。
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