イエスが「あなたたちは神々である」(ヨハネ10:34)と言ったのは、誰に対してであり、何を意味していたのでしょうか。多くのニューエイジ思想家たちやヨガの擁護者たちは文脈からこの文を抜き取り、すべての人間が神であるとイエスが教えたのだから、私たち人間も神なのだと主張します。また、ある誠実なクリスチャンたちは、このイエスの宣言を歴史的ルートに従うことを誤り、新しく生まれ変わったクリスチャンに与えられる称号であると主張します。しかし、この文を文脈の中で詳細に調べていくと、それはまったく違うものを伝えているのです。より深く掘り下げ、真理に近付きましょう。
あるイスラエルの指導者たちは、「神の子」であるというイエスの主張を退けていました。イエスが「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」(ヨハネ10:32)と言ったとき、イエスを処刑する寸前でした。
怒りに満ちたユダヤ人指導者たちは、「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆(ぼうとく)したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」(ヨハネ10:33)と答えました。
イエスはこの後、旧約聖書の一節を引用し、彼らの告発に対抗しました。
あなたたちの律法に、「わたしは言う。あなたたちは神々である」と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、「神々」と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、「わたしは神の子である」と言ったからとて、どうして「神を冒瀆している」と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。(ヨハネ10:34~38)
ここでイエスが言う「神々」とは誰のことでしょうか。この謎を解く最初のステップとして詩編82編を見てみましょう。
神は神聖な会議の中に立ち
神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き
神に逆らう者の味方をするのか。
弱者や孤児のために裁きを行い
苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い
神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず
闇の中を行き来する。
地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った
「あなたたちは神々なのか
皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
君侯のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
あなたはすべての民を嗣業(しぎょう)とされるでしょう。
この詩編で「神々」と訳されているヘブライ語は「エロヒム」です。旧約聖書で、2千回以上「エロヒム」は「神」と訳されており、この詩編の箇所を含んだ200回以上が、複数形の「神々」と訳されています。しかし、ここで言われる「神々」とは誰のことでしょうか。それは、天にいる何かの神々のグループでしょうか。決してそうではありません! これは、特定の人々であるイスラエルの士師たちのことだったのです。
このことは、謎を解く2番目のステップへつながります。では、次に出エジプト記にさかのぼってみましょう。聖書の2番目の書であるその中に、エロヒムは4回出てきますが、欽定訳聖書や新欽定訳聖書、または他の英語訳聖書では「judges(士師、裁く人々)」と訳されています(日本語の新改訳聖書、新共同訳聖書では「神」、出エジプト21:6、22:8~9)。しかしながら、ヘブライ語の語源は文字通り「神」か「神々」のどちらかです。ですから、イスラエルの士師たちはエロヒムと呼ばれ、そのイスラエルの語彙では「神々」を意味しました。
至高の神がイスラエルの代表である士師たちをエロヒムと呼んでいたのは、彼らが正しい裁きを行うとき、神の権威を持って話したからだといわれています。神の言葉(知恵の言葉と知識の言葉)が超自然的に彼らに与えられたからでした。イスラエルの神は、みことばと神の霊を通して、士師たちにひらめきを与えたのです。全能者のマウスピースとして、神のことば(律法であるトーラ)に従って判決を下し、彼らのもとにもたらされた事柄に対して、神のご意思を表したのでした。神ご自身が、彼らの中で彼らを通して民を裁かれたので、神の代表者たちはこの名誉ある称号を与えられたのでした。彼らは崇拝されるべき対象という意味での「神々」ではなく、神の権威の下で語るという意味で「神々」と呼ばれていました。
しかし結局、イスラエルの士師たちの多くは、賄賂を受け取ったり、誤った判断を下したり、権限を悪用したり、多くの不正を行ったりして腐敗していきました。彼らは神とコミュニケーションを取れなくなったので、しばしば神を誤って伝えてしまい、その結果、神の人々に打撃を与えてしまいました。イエスが引用した詩編82編の冒頭にこう書かれています。「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」。神は、士師たちに、ご自身が超自然的な意味で彼らの中に存在し、裁きを下す存在であることを思い出させておられたのです。
しかし、次に主は、士師たちの行動に抗議して言いました。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ」(詩編82:2~3)
神は士師たち(「神々」、ヘブライ語「エロヒム」)を責めておられました。なぜなら彼らは助言者である神に耳を貸さなかったからです。彼らには自分たちの意図があり、多くの場合、自己中心的で、操作的で、霊的に鈍感でした。だから神は厳しい警告を彼らに与えたのでした。「わたしは言った。『あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する」(詩編82:6~7)
この聖句はイスラエルの士師たちの神性ではなく、人間性を明らかにしています。それは死すべき運命を表しており、彼らの高尚性を表すものではありません。彼らは崇高な言葉をもって自分自身のことを考えるかもしれませんが、人類全体を追い掛ける「ストーカー」である死が、やがて彼らをも捕えるのです。ですから、聖書のこの部分の正しい解釈は、一部の人が解釈している意味とはまったく逆なのです。
ニューエイジ思想家たちが、すべての人間が「神性」を持つようになる証拠として、このイエスの言葉を用いることができないことは、疑いの余地がありません。またこの「神々」という言葉は、新しく生まれ変わり、神の霊で満たされた人々の運命として暗示されているわけでもありません。聖書の著者は、そのようなメッセージを伝えるためにこれらの文章を書いたのではありませんでした。
これが私の主張ですが、「神々」という称号が、この新約時代に新しく生まれたクリスチャンに対するものだと主張する人たちの考えも私は理解します。彼らの論理の一部は、以下のような9つの考えに基づいています。
1. 馬は馬を生み、犬は犬を生む。そうであるならば、神の子は何であろうか。次の空欄を埋めよ。神は___を生む。
2. クリスチャンは、神の「尊くすばらしい約束を与えられ」たことにより、「神の本性にあずからせて」いただいた(2ペトロ1:4)。
3. 神の「種」(ギリシャ語「スペルマ」、英語の「sperm / 精子」はこれに由来)は私たちの中にあり、だから、象徴的かつ霊的に、神のDNAそのものが私たちの一部となる。私たちには神のご性質が注ぎ込まれている。キリストの新しい作品として、私たちはまさに神の義とされたのである(1ヨハネ3:9、2コリント5:21)。
4. 私たちが御霊によって歩むなら、古代の士師たち(エロヒム)に与えられたように、私たちにも神のみことばが与えられる。真実な弟子(神の羊)は、イエスの声を聞き分ける(ヨハネ10:27)。これは否定できない。時々私たちは、日々神と共に歩む中で、知識の言葉や知恵の言葉を超自然的にひらめくように受け取る(1コリント12:8)。
5. 私たちは、――この世における神の声、油注がれた神の代理者として――「神のお告げ」を語るように召されている(1ペトロ4:11)。
6. 神の聖なる者たちに、教会の民事、社会、宗教の問題を裁く権限が与えられており、やがていつか、すべての裁判官の洞察と権限の下で、世を裁き天使をも裁くことになる(1コリント6:1~6)。だから私たちは古代の士師たちと同様の役割を果たすが、さらに完全な者とされ、高く上げられる。
7. 私たちはイエスと同じように、父との一体感を持っている。いつか、私たちは一体感を最高に楽しむことになる。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受け」ることになる(ヨハネ1:16、17:22~23)。
8. イエスが再臨されるとき、瞬時に私たちは変えられ、栄光を受け、父の王国で太陽のように光り輝き、長子である御子のようになる。
9. 私たちはすべてのものを遺産として受け継ぎ、永遠に神の神殿の柱となり、王たちと祭司たちは永遠にイエスと一緒に新しい世界を統治する。
確かに、これらの検証可能な素晴らしい真理を考慮すると、新生して神の霊に満ちている人々は、ヨハネによる福音書10章34節や他の引用にあるエロヒム(神々)という地位を主張するよりも、さらに大きな権威を持っているのではないでしょうか。
しかしこれは、イエスの言葉のもともと意図する意味を拡大解釈した場合のみの話です。
神の息子と娘に疑いなく「神」(エロヒム)の称号を与えるとする聖句はどこにもありません。ですから、その霊的な資質を主張することを、私たちは決して自分自身でするべきではありません。しかしながら、強調するべきことは、この9つのポイントからの考察に基づき、信仰者がこの称号を得る正しい権威を持っていると感じる聖書教師を、異端者として非難するべきではありません。ほとんどの場合、彼らはおそらく神と神のことばを本当に愛し、それを正しく解釈しようとする誠実な信仰者でしょう。これらの文の適切な解釈では、このように結論付けるべきではありませんが、この用語をあえて使う人の見方を理解する必要があります。大抵、崇拝される対象という意味や、ニューエイジ思想家が主張するように、メシアと同等の神の体現であるという意味で、その「神性」を主張しているのではないのです。彼らはただ、神が私たちを主の宮とし、神の子どもにしてくださり、その成し遂げられた偉大な御業を祝っているのです。ですから、私の結論はなんでしょうか。
第一に、ニューエイジ思想家たちに対してですが、この箇所の正しい解釈は、すべての人々の「神性」をイエスが暗示したことではないことを、はっきりとさせることを強調します。
第二に、私はこの称号を自分や他のキリストの弟子のために決して要求しません。神の誠実で忠実な息子と娘になるという使命を果たすなら、私たちは素晴らしいことを成し遂げることができ、計り知れないほど幸せになれるはずです。
第三に、私はこの称号を主張するキリストの体の仲間を、背教者や偽預言者、または異端としてレッテルを貼ることはしません(もちろんキリスト教から逸脱したモルモン教のような、ある種のカルト的なものでない限り)。私は彼らに同意しないかもしれませんが、たいてい彼らがどのようにして彼らの結論に至ったのかを理解しているからです。
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