聖霊は人格的存在(personal being)かそれとも何かしらの力(force)なのか。神学者ジャック・レビソン教授は、聖霊はその両方であり、またそれ以上の存在だと述べている。
米国人のキリスト教神学に関する意識調査によると、自分をキリスト教徒と自認する人たちの間でも、聖霊について意見の相違や混乱があることが明らかとなった。霊とは力なのか、それとも人格を持った存在なのだろうか? この霊はペンテコステ派のクリスチャンにだけ宿るのか、それとも全ての信者に与えられているのか? ある神学者は、霊とは力と人格的存在の両方であり、キリスト教徒だけでなく、全ての人の中に存在するのだと言う。
米フロリダ州に本部を置く長老派の神学教育団体「リゴニア・ミニストリーズ」の委託で、ライフウェイリサーチによって昨年行われた調査の結果は、それほど世界を驚愕させるようなものではなかった。というのも、キリスト教徒と一般的な米国人は、聖書においても多くの点で解釈が異なっているからだ。しかし、「神学状況」調査で明らかになった三位一体の歴史的教義について、福音派キリスト教徒が抱く信条は驚くべきものかもしれない。
71パーセントの米国人が、神は三人格(父と子と聖霊)であるという三位一体を信じる一方で、その64パーセントは聖霊は力であると考えている。しかし、福音派の間では、59パーセントが聖霊は力であると述べるのに対して、31パーセントが聖霊は人格的存在だと言い、10パーセントがどちらか定かでないと述べている。
南メソジスト大学(テキサス州)のウィリアム・ジョセフ・アンブローズ・パワーで、旧約ヘブライ語と旧約聖書解釈学を教えるジョン(ジャック)・レビソン教授は、聖霊論で多くの執筆を行っており、今回の調査結果には励まされたと語っている。
「私がこの調査結果を読んだとき、それは希望の兆しのように見えました。聖霊を、力や人格的存在、また何か他のものとして限定してしまったら、私たちは聖霊を誤解していることになります。聖霊はそれら全てであるからです」とレビソン教授は、米クリスチャンポスト紙のインタビューに答え、「ですから、『分からない』ということは良いことなのです。なぜなら、分からないから一つのものや、それら全てである聖霊の神秘を求めようと、私たちは動かされるからです」と付け加えた。
レビソン教授は、『Inspired: The Holy Spirit and the Mind of Faith(霊的な:聖霊と信仰の心)』『Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life(新鮮なる空気:霊的な人生のための聖霊)』など、霊に関する自身の著書をもとに、全ての人間は神の御霊を持ってこの世に生まれてくる、ということを示す例を挙げた。
レビソン教授は、「聖書の始まり」である創世記を取り上げ、「聖書の最初の書である創世記を読むと、第41章のヨセフの物語では、ファラオはヨセフが特別であることに気づきます。彼の能力や夢を解き明かす力のことです。そして王はヨセフのことを『神の霊が宿っている人』と呼ぶのです」と説明する。
また、レビソン教授はその他の例を挙げ、ヘブライ語の「ruach(ルーア)」という単語について言及した。
「聖書のイザヤ書で、神が息吹である霊を全ての人々へ注ぐことが書かれています。英語では、『息』と『霊』を区別する傾向がありますが、ヘブライ語ではそれはできません。それは『ruach』という同じ単語だからです」
「もしあなたがヘブライ語の聖典である旧約聖書から始めるのであれば、全ての人の中に宿る神の御霊から始まる神学を信じることになるでしょう」と、レビソン教授は付け加えた。
しかし、『The God Delusion』(邦題:神は妄想である)というベストセラー本の著者である英国の進化生物学者リチャード・ドーキンスのような、神の存在を否定する全ての人にも、神の御霊は宿るのであろうか?
「もし私たちが『神の霊とは神の息である』という見方をするなら、そうなるでしょう? それには皆同意することができます。神は人間に御霊である息吹を吹き込むのですから」とレビソン教授は答え、「もし神が人類に命を吹き込んだのならば、それは汚れたこの世的な命を吹き込んだのでしょうか? そしてキリスト教徒にだけ、神聖で霊的なものを吹き込んだのでしょうか? 私はそこを分けることはできないと思うのです」
新約聖書と近代ペンテコステ運動で見られる聖霊の働きを含む、レビソン教授の聖霊に関する詳しい見解は、下記の動画(英語)で見ることができる。レビンソン教授はこの中で、新しく信仰を持ったキリスト教徒が、三位一体の第三の人格である聖霊を、どのように探求することができるかも提案している。