ボートに乗る女性の物語
初めに、『ボートに乗る女性の物語』を読んでみてください。
あるところに、それはそれは、穏やかで平和な川がありました。でも、その川の先には恐ろしい滝つぼがあり、そこに落ちれば一巻の終わりです。そんな川の岸辺に青年がいつものように座っていると、一人の女性の乗るボートがやってきました。ボートを川の流れにまかせ、彼女はうれしそうに下っています。青年は滝つぼのことを知っていたので、思わず叫びました。
「お嬢さん。その先は危険です。そのままだと死んでしまいますよ!」
女性は、ほほ笑みながら言いました。
「ご冗談を。見てください。この穏やかで平和な川を。心配などいりませんわ」
青年は、すぐさま言い返しました。
「今はそうかもしれませんが、この先には恐ろしい滝つぼがあります。そこに落ちれば死んでしまいますよ! 今、ロープを投げますから、僕を信じてこれにつかまってください!」
それでも女性は言いました。
「どうぞご心配なく。私は大丈夫ですから。見てください。私には頑丈なボートがあります」
こうして女性は、青年の目の前を幸せそうに通り過ぎていきました。そして突然、彼の視界から消えたのです。そうです。彼女は滝つぼにのみ込まれてしまいました。
質問
では、質問です。この青年から見て、この女性は存在していたと言えるのでしょうか。それとも消えていなくなったので、存在しているように見えただけで、本当は存在していなかった、となるのでしょうか。
正解は、「存在しているように見えただけで、本当は存在していなかった」です。すると、「何ばかなことを言っているのか。そんなわけないだろう」と言われてしまいそうですが、真実を追究するのであればそういうことになります。そこで、ヘラクレイトス(紀元前540年ごろ~同484年ごろ)が言った次の言葉を見てみましょう。
同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。(『ソクラテス以前哲学者断片集』ヘラクレイトス断片49a)
「同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない」とは、私たちは同じ場所の川に入ったつもりでも、自分の足に触れる水が以前の水とは違う以上、まったく同じ川に入ったとはいえないということです。そうなると、そこに川が存在していたとしても、それは真に存在しているわけではないということになります。そうしたことからヘラクレイトスは、私たちを含む万物も川の水のように流転しているので、「われわれは存在しているし、また存在していない」と結論付けたのです。
この結論は的を射ていました。人が見ないようにしていた恐ろしい真実を表舞台に引きずり出したのです。それ故、この考えはその後の西洋哲学に大きな影響を与えることになりました。つまり、青年の前を通り過ぎて消えた女性は、青年からすれば「存在しているように見えただけ」で、真実は「存在していない」となります。私たちも「時間」という川を流れていて、そして消え行くので、やはり「時間」という川の外におられる方から見れば、「われわれは存在しているし、また存在していない」ということになってしまいます。
とはいえ、このような話は信じ難いことでしょう。ですが、このことが分からないと、人の真実な問題も見えてきません。そこで、また質問をします。昨日のあなたはどこに存在しますか。昨日という「時間」に存在したあなたは、今どこにいますか。
私たちは、確かに昨日という「時間」に存在していました。しかし、昨日という「時間」は、もうどこにもありません。昨日はすべて消えてしまい、それは記憶の中にあるだけです。それだけではありません。私たちを形作っている細胞も、1日におおよそ1兆個が入れ替わっているといわれている以上、人の体ですら昨日と今日では違います。鏡で見る自分は昨日と同じように見えても、真実はまったくの別人です。そして、あの女性のように消えてしまいます。そうした状況は、やはり「存在しているように見えるだけ」であって、真実は「存在していない」ということになるのではないでしょうか。
それでもまだ、「いや、そんなことはない。私たちは存在している」と言うのであれば、私たちが存在する「時間」は一体どこにあるのか、答えてみてください。それはここにあると言った瞬間、それはもうなくなっています。なくなるのは「時間」だけではありません。その時の「空間」もなくなります。「空間」とは、人を取り巻く環境のことですが、それも休むことなく変化し続けているのでそうなります。
つまり、私たちには自分が存在できる「時間」も「空間」もないのです。平たく言えば、自分の住む家がどこにもなく、自分の住所がないということです。ない以上、真実は「存在していない」としか言いようがありません。ならば、逆に「存在する」とはどういうことなのか、次にそれを考えてみましょう。
「存在する」とは
その昔、パルメニデス(紀元前515年ごろ~同445年ごろ)は、「存在する」ことを「あるもの」と表現し、それは「不生にして不滅であること」と言いました(『ソクラテス以前哲学者断片集』パルメニデス断片8)。「不生にして不滅である」とは、それは何かから生じたのではなく、常に「ある」ということです。何かから生じたものであれば、それが生じる前は存在していなかったことになるので、確かに「存在する」とは、生まれもしないし終わりもしない、それは常に「ある」でなければなりません。この考えも広く支持され、これも後の西洋哲学に大きな影響を与えました。
「存在する」 = 生まれもしないし、終わりもしない
そうすると、生まれるという始まりがあって終わりがある世界には、「存在する」ものは何もないことになります。つまり、始まりと終わりがあれば、それを結ぶ「時間」がそこには生じますが、「時間」が生じる世界には「存在する」ものは何もないということです。このことから、「時間」の制約を受けないことが「存在する」こととなり、それを「永遠」といいますが、「永遠」を所有する方のみが真実に「存在する」方だと分かります。
さらに言えば、「永遠」を所有した方がおられなければ、今日の私たちは存在しません。というのも、私たちには始まりがあるので、始まりを持たない「永遠」なる方がおられない限り、私たちの始まりは説明できないからです。たとえ進化論によって私たちが誕生したと言ったところで、その進化論にも宇宙のビックバンという始まりがあります。ならば、その始まりは一体どこから来たというのでしょう。どうやって無から有が生じたというのでしょうか。始まりを持たない「永遠」なる方の存在があって、初めてそうした宇宙の始まりにも説明がつきます。故に、人は昔から「永遠」なる方の存在を認め、その方を「神」と呼んできました。聖書は、その方を証しするための書です。
その聖書は、「永遠の神」がおられ、すべてはその方から始まったことを教えています。「【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方」(イザヤ40:28、新改訳)。そして、その方はこの世界を動かしている「時間」の外におられるので、動くこの世界からは見えないことも教えています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は」(ローマ1:20、新改訳)。
そうなると、ますます私たちは存在しているように見えるだけであって、本当は「存在しない」ということになります。すなわち、人の栄えは花と同じように散っていくだけであって、「神」だけが「本当に存在する」方になるので、「神」(主)のことばはとこしえに変わらないとなります。聖書はこのことを、次のように教えています。
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。(1ペテロ1:24~25、新改訳)
では、聞きます。
「あなたは存在しているのでしょうか? それとも、存在しているように見えるだけなのでしょうか?」
ああ、何ということでしょう。私たちは存在しているように見えていただけで、真実は存在していなかったのです。生きているように見えるだけで、生きてもいません。それで聖書は私たちのことを、「すべての人が死んでいるように」(1コリント15:22、新改訳)と言っています。つまり、私たちは散っていく花と同じで、一時、誰かの思い出に残るだけです。これは、何と恐ろしい現実でしょうか。
恐ろしい現実
考えてみてください。私たちは生まれたときから自分がどこから来て、どこに向かっているのかも分からず、ただ「時間」という川をボートで流されていたのです。存在しているようで、存在すらしていませんでした。しかし、この恐ろしい現実を承認できれば、なぜ私たちはわけも分からないまま「不安」を抱いてきたのか、その答えが得られます。そうです。自分が存在しているように見えるにもかかわらず、本当は存在していなかったために「不安」を抱いてきたのです。「時間」という川の中ではすべてが流されてしまうので、自分が存在できる場所を確保できないまま「不安」を抱いてきたのです。それはちょうど、どんなに立派な家を作っても必ず洪水で流されてしまうようなものです。つまり、住む家がどこにもないということであって、それがどれだけ「不安」な気持ちを人に抱かせるかは言うまでもありません。
それで私たちは「不安」を何とかしようと、流れ続ける「時間」を静止させ、自分が存在できる場所を確保しようとします。例えば、写真を見ては思い出にふけることで「時間」を静止させようとします。例えば音楽を聞くことで、例えば空想をめぐらせることで、例えば趣味や快楽に興じることで、何としても「時間」を静止させようとします。そうやって、模擬体験でもいいから存在できる場所を確保し、安らぎを得ようとします。
しかし、そうした試みも空しく、現実の「時間」という川は決して「静止」などしません。そのため、せっかく得た安らぎも夢から覚めるように再び「不安」に変わってしまいます。さらに「時間」という川は、この世界から消えていく人たちの姿を見せつけることで、また老いていく自分の姿を見せつけることで、この先には人を死に追いやる滝つぼがあることを思い知らせてきます。結局、誰もが「不安」に加え、「死の恐怖」におびえながら日々を過ごすしかないというのが実情です。これは何と恐ろしい現実でしょう。この現実に、一体誰が耐えられるというのでしょうか。誰も耐えられません。
そこで人は、自分の乗っているボートを競って富や名誉で飾るようになりました。飾っては他の人のボートと比べ、少しでも幸せな自分を作り出そうとしました。そして、冒頭の物語で女性が言ったように、「どうぞご心配なく。私は大丈夫です。見てください。私には頑丈なボートがあります」と言うのです。人はそうやって、「不安」や「死の恐怖」から目を逸らすしかありませんでした。ああ、何と惨めな姿でしょう。パウロは自分がそうだったので、それを聖書で告白しました。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ7:24、新共同訳)
このように、私たちの現実は「時間」という川を終わりに向かって流れて行くだけで、どこにも存在できないのです。そのことによる「不安」と「死の恐怖」から、見える安心をむさぼるしかない惨めな姿が、私たちです。ならば、どうすれば存在する者になり、真に生きる者になれるのでしょう。それは、どうすれば「時間」という川から脱出でき、存在するのに欠かせない「静止」した場所を確保できるのかということです。
脱出の道
もう一度、冒頭の物語を思い出してください。あの時、青年はロープを投げました。青年は川の外にいて、決して流されることもなく静止していたので、彼が投げたロープにつかまれば女性は流されずに助かりました。同じように、私たちも「時間」という川を流されているので、「時間」の外にいる方、すなわち静止している「神」がロープを投げてくだされば、そしてそれにつかまることができれば助かります。静止した場所に引き上げられ、真に生きる者になれます。
ありがたいことに、「神」はロープを投げてくださいました。そのロープが「イエス・キリスト」です。この方は「神」からのロープだったので、「時間」に流されることなく静止することができ、昨日も今日も、いつまでも変わることがありませんでした。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル13:8、新改訳2017)
それ故、この方につかまれば「時間」の外に引き上げられます。存在しなかった「死人」から、真に生きる者になれます。そこで「イエス・キリスト」は、次のように言われました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25、新改訳)
神の子の声を「聞く」とは、神の呼び掛けに応答するということであり、神を信じることを意味し、それが「神」からのロープにつかまることになります。「イエス・キリスト」は、そうすれば「死人」から「生きる」者になると、言われたのです。
ところが人は、「イエス・キリスト」というロープにつかまろうとはしません。なぜなら「理性」が、「イエス・キリスト」は「人間」であって「神」ではないと反発するからです。人は自分が経験して考える「理性」がすべてであり、それ以外は信じないのです。しかし、そのことに警鐘を鳴らす人物が現れました。
警鐘を鳴らす
自分が考える「理性」を絶対視することに警鐘を鳴らしたのは、あの有名なカント(1724~1804)です。カントは、問題は「理性」が何を認識しているかであるとしました。例えばリンゴが落下したとき、人が認識するのは落下したという現象から得た印象であって、リンゴ自体ではありません。しかも、その印象には人の主観が加わっているので、私たちが見ているのはリンゴ自体ではなく、あくまでも現象ということになります。カントはそのことを指摘し、現象を認識する「理性」だけに頼るのは愚かだと結論付けたのです。
言われてみれば、そのとおりです。私たちが見ているのは確かに現象であり、そのものを見ているわけではありません。カントはこの当たり前のことを、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という3つの書にまとめ、人間の認識能力を批判しました。純粋理性に由来する知識は幻想以外の何ものでもなく、それ故、すべての知識は、経験によってのみ真理とされるにすぎないとしました。そうやって、人間の「理性」の無制約な使用を戒め、その範囲を限定しました。「理性」が認識し得るのは、「時間」が支配する有限の世界までであって、「時間」に支配されない「神の概念」は認識できないとしたのです。「神」を知り得るのは「理性」によるのではなく、あくまでも「信仰」によるとし、「理性」が「信仰」の領域に侵入しないようにしました。そのことをカントは、『純粋理性批判』の中でこう述べています。
[経験を超越するような]行き過ぎた洞察をすることが許されるという越権を、思考する理性から奪う必要があるのである。というのも、思考する理性がこうした洞察をするために利用せざるをえない原則は、実際には可能な経験の対象だけに適用されるはずのものである。(中略)だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかったのである。(『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫、175ページ)
こうしてカントは、「理性」における認識の対象を、私たちの目の前に広がる世界だけに限定しました。そして認識というのは、見える現象に主観が入った印象であって真実ではないとしました。ここに「神」を知る「信仰」と「科学」が分離したのです。実は「理性」への警鐘は、聖書に起源があります。例えば、聖書は次のように教えています。
事実、この世が自分の知恵(理性)によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:21、新改訳)※( )は筆者が意味を補足
聖書も、「神」の言葉は信じることでしか受け取れないとし、「理性」の行き過ぎに対して警鐘を鳴らしました。そもそも人は「時間」という川を流れているので、「時間」の中のことしか認識できません。そのため、「静止」しておられる「神」を「理性」で知ることなど初めから無理なのです。それはちょうど、水槽の魚は水槽の中だけしか認識できないのと同じです。ならば「理性」で認識できない「神」はどうすればよいのか、それはカントが言うように、また聖書が言うように、信じるよりほかありません。「神」を知ることは、「信仰」が担当します。そこで、これからする「神」の話をぜひとも、「信仰」で読んでみてください。
イースター
私たちは「時間」という川を流されているので、「時間」の外におられる「神」だけが私たちを助けることができます。「神」はそのことをご存じだったので、そして「神」は、父と子と聖霊からなる三位一体の方だったので、父なる神はためらいもなく愛するわが子を、何と、人を救うロープとして私たちに投げてくださいました。子としての神も、それを喜んで受け入れ、「時間」という川に飛び込んでくださいました。その方が「イエス・キリスト」です。
そして「イエス・キリスト」は、ご自分が救いのロープであることを証しするために十字架で死んで、3日目に復活してくださいました。復活は、人を死に追い込んでしまう「時間」の世界から脱出できたことの証しとなるからです。それで聖書は、「イエス・キリスト」を信じる者は、すなわちこの救いのロープにつかまる者は、同じ復活の姿にあずかれることを教えています。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:5、新改訳)
これを、「十字架のことば」といいます。それは「理性」を頼りとする者には愚かにしか聞こえないことでしょう。しかし、「信仰」で救いを受けようとする者には、神の力となります。聖書はそのことを、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント1:18、新改訳)と教えています。まさしく、信じる者が救われるのです。ですから「イエス・キリスト」も、次のように言われました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24、新改訳)
このように、私たちは「時間」の外におられる「神」を信じる「信仰」で、「死」から「いのち」に移されます。死に直結している「時間」という川から救い出され、真実に「存在する」者になれます。これこそが「不安」と「死の恐怖」を停止できる唯一の道であり、ここに真の希望があります。この希望を信じた人々は「イエス・キリスト」の復活を心から感謝し、祝うようになりました。それが「イースター」です。
忘れないでください。人は絶えず「時間」に流され続けていることを。そのせいで、昨日の私はもうどこにも存在していないことを。存在したと思った瞬間には、もう次の場所に移動させられていることを。そうです。人はどの時点にも存在できないまま、死という滝つぼに消えていくのです。それが「不安」の原因であり、「死の恐怖」を引き起こさせています。
この恐ろしい現実から脱出したければ、「イエス・キリスト」という「永遠」なる方に「信仰」でつかまり、流されないようにするしかありません。それしか助かる道はありません。いくら自分が乗っているボートを富や名誉で飾ったところで、死という滝つぼを回避できないことは、あなた自身が一番よく分かっているはずです。
今、世界中で新型コロナウイルスがまん延し、人々は「死の恐怖」におびえています。しかし、いくら運良く感染しないで済んだとしても、死は必ず訪れます。大事なことは、死の先に何が見えるかです。感謝すべきことに、「イエス・キリスト」の復活を信じる「信仰」の量りで死を見るなら、その先には希望が見えてきます。「イエス・キリスト」の復活が死をのみ込んでしまうので、何が起ころうとも希望が見えてきます。これこそが、新型コロナウイルスの恐怖に対する「信仰」による対応になります。
しかし、死という現実を「信仰」の量りも使わずに見てしまうなら、その先には恐怖しか見えません。それでも自分は大丈夫だと言うのなら、それはもう思うべき限度を超えて思い上がっています。神は人がそうなって苦しまないように、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」(ローマ12:3、新改訳2017)と、聖書で励ましておられます。まことに「死の恐怖」に打ち勝つ武器は、「イエス・キリスト」の復活を信じる「信仰」しかありません。そして、この「信仰」の武器を確認するときが「イースター」になります。そこで最後にもう一度聞きます。
「あなたは存在しているのでしょうか? それとも、存在しているように見えるだけなのでしょうか?」
忘れないでください。「イエス・キリスト」だけが救いのロープであり、救いの門です。そのことを歌にした「わたしが門です」というゴスペルグループ「ノア」の新曲がありますので、その歌詞と楽譜を最後に記載しておきます。この曲が、少しでも「信仰」の励ましとなれば幸いです(楽譜はこちら)。
わたしが門です
わたしが門です ここから入りなさい
イエス様の声 優しく響く 心の奥底で
イエス様の門から 入っていくなら
そこに広がる 安らぎに心が癒やされてく道草ばかりしていて さまよっていた私を
イエス様はずっと 呼んでいてくれた
*イエス様のもとへ行こう 全てを知っておられる
イエス様のもとで 安らかに生きよう*私の全てを知って 慰め助けてくれる
イエス様のもとで 安らかに生きよう
◇