ぼくが10歳のときのこと、ひいおばあさんが80を過ぎて、いよいよ最期が近づきました。ある日、母と祖母を枕元に呼んで言いました。
「私は死んだらどうなるんか、分からんのじゃ。神主さんに聞いたが、神主さんも、『岸さん、そこだけはじゃなあ、分からんのです』と言われたんじゃ。ところで、あんたらの方では、そこはどうなっとるんかなあ」
そこで、母と祖母は飛び上がらんばかりに喜んで言いました。「おばあさん、私らの方ではなあ、死んだらその日のうちに、すぐに復活の世界、天国に入ることが決まっとるんですよ。イエス様が十字架の上で、強盗の一人に約束されたんです。『今日、あなたは、わたしといっしょに、パラダイスにいる』。おばあさん、クリスチャンは全員がじゃなあ、その日のうちに天国に行けることが、決まっとるんです」
そうしたら、ひいおばあさんが言いました。「そういうことなら、私もじゃなあ、あんたらの方へじゃなあ、信仰を移らせてもらいてえがなあ」
こうして、中島彰という先生に連絡をして、キリスト信仰を告白したひいおばあさんはふとんに寝たままで、洗礼を受けました。その日の夜、ひいおばあさんは、枕元にお姉ちゃんとぼくを呼びました。
火箸のように細い右手を伸ばして、ぼくの手を握り、左手で、お姉ちゃんの手を握って言いました。「おばあちゃんは、もうすぐ、イエス様の天国に行くんじゃ。天国はええところらしいから、あんたらも、早う来られよう」
その2、3日後、ひいおばあちゃんは、天国に召されて行きました。ぼくは、子どもながらに、天国は遠いところじゃなく、何かすぐそこにあるような気持ちになりました。
田舎の村で初めての「賛美歌を歌う珍しいお葬式」が自宅で行われました。そんな後のこと、ぼくがおかあちゃんに尋ねました。「天国に行ったら、ひいおばあちゃんは、82歳のままなんかなあ。赤ちゃんは死んだら、永遠に赤ちゃんのままかなあ?」。「そんなはずはないがなあ・・・。天国では、何歳ぐらいになっとるんかなあ・・・」
皆さん、どう思われますか? 恐らく、その人の人生の一番盛んな年齢、一番輝いているころの姿形ではないでしょうか。イエス様は、十字架にかかられて、復活された33歳のころのお姿では。
天国の詳しい状況は聖書で教えられていないので、分からないのですが、人種や性別や年齢を超越していて、なおかつ親子・夫婦・仲間・師弟などの関係性は認識できるという、新しい創造が与えられるのではないでしょうか。楽しみです。
聖書全体の中で、最も重要で、衝撃的な言葉があります。それは、イエス・キリスト様が語られた言葉で、ご自分が何者であるかを語られた、いわゆる「キリストの自己宣言」です。
「このわたし自身だけが、わたしは復活である、(永遠の神の)いのちである。このわたしを信じる者は、たとい死んでも、再び生きる。生きていて、わたしを信じている者は全員が、決して永遠に死なない(死は一瞬の通過点だ)。あなたは、これを信じるか?」
マルタはイエス様に言う。「はい、主よ。この私自身、私は信じています、あなたご自身だけが、キリスト(救い主)、神様のご子息、この世に来られるお方であると」
(ヨハネ福音書11:25~27)
ちょっと専門的になりますが、聖書の言葉のイロハです。聖書の原語では「このわたし自身」と訳される言葉は「エゴー」というギリシャ語で、英語では大文字で表される「I」ですが、特別に強調されているのです。そして、もう一度「わたしは~である」「わたしは~する」が続くのです。
「このわたし自身だけが、わたしは復活である、いのちである」。これは、イエス・キリストの命を懸けた自己宣言です。これは、キリスト以外には、誰も言えない、誰も言ったことがない大胆不敵で、他のすべてを斬り捨てる、自信満々の自己宣言です。
まことに不遜とも見える、排他的な名乗り上げです。歴史上の指導者で、このような名乗り上げをした人はいません。一人もいませんね。
聖書には2種類の「いのち」という用語があります。1つは「プシュケー」で、これは生物学的な命、動物・人間の肉体的生命です。漢字で表す場合が多い。英語の心理学/サイコロジー/psychology/のサイコが、肉体の頭脳の働き、心に関係します。
イエス・キリストの生物学的な生命を表す言葉。「人がその友のために自分の命を捨てる・・・良い羊飼いは羊のために命を捨てるべき」などはすべて「プシュケー」です。生老病死の流れです。死は自然の終わりであり、残酷なものです。
もう1つは「ゾーエー」、これは神様の永遠のいのちを表します。ここでイエス様が宣言されている言葉は、言うまでもなく「ゾーエー」です。「復活=永遠のいのち」(ヨハネ3:16)です。「このわたし自身だけが、わたしは復活である、いのちである」。「プシュケー」の死を一瞬の通過点として、永遠のいのち、「ゾーエー」の復活の世界へ引き上げる者であるということです。
十字架の身代わりの死。3日目の復活。この復活こそ、イエス・キリストが世界の救い主であることの証明です。神様が、罪と、死と、滅亡に向かう人類を救うために、地球に派遣された救い主であることの証明です。
イースターのキリスト復活は、聖書で一番重要な奇跡の出来事、希望を約束する救いの出来事です。キリストの十字架と復活のことは、キリストの事実、キリストの2大事実といわれてきました。
イエス様の十字架は、あなたの罪の身代わりの審判の出来事です。イエス様はあなたを愛し、あなたの代わりに自ら十字架にかかって、あなたの罪の審判を引き受けてくださったのです。それによって、あなたの罪はすべて赦(ゆる)された! 赦されたのです。
3日目の復活は、十字架による罪の赦しの救いが本当であることを裏付けるもの、その有効性を証明するものです。復活は、救いが絶対に確実であることを証明する神様の実印です。人類の最大にして最後の敵、死を征服して復活させられたイエス様は、私たちに復活のいのち、永遠のいのちを与えてくださったのです。
人生は、死によって打ち切られて、永遠に終わるものではありません。イエス様の復活によって、人生最後に直面する死は、単なる、一瞬の「通過点」となったのです。
今日、ここで、イエス様の復活の救いを信じ、受け取ってください。あなたはもはや死を恐れることがなくなるだけでなく、死を通過した直後に、永遠のいのちの神様の国で復活を与えられ、意識を取り戻すという、喜びと希望の救いを頂くのです。
ぼくの学生時代からの親友の一人に、宮本皓生君がいます。彼は牧師になるための専門学校で学んだのですが、考えるところがあって大阪市立高等専門学校の数学の教師として勤務しながら、教会を開拓した時期もありました。ところが、50歳を前に、血液のがんで倒れ、2年ほどの闘病の末、召されていきました。
宮本君が召される直前のことでしたが、ぼくが東北地方へ巡回伝道に出る前日、胸騒ぎがしました。「もう、地上では会えなくなるかもしれない」。ぼくはすぐ新幹線で大阪の病院へ行きました。
面会室で待つと、宮本君が点滴の管を2本つけたスタンドにつかまって歩いて現れました。抗がん治療の副作用のためやせ細り、別人のようでした。
ぼくは、今日の聖書のページを読みました。じっと聞いていた宮本君が、やがて言いました。「ぼくに聖書を見せてくれ」。彼はじっとイエス様の復活の自己宣言を読んで、確認をしていました。そして言いました。
「岸君、これは本当のことだよね。このまま信じていいことだよね」。「そうだ、宮本君、このまま信じていいことだよ」。「岸君、これは本当に起こることだよね」。「そうだ、宮本君、これは本当に起こることだ」
それから、ぼくたちは声をそろえて、イエス様のこのお言葉を読みました。そして、信仰と感謝の祈りをしました。
「宮本君、ぼくは明日から東北へ車で出掛ける。交通事故で、先にぼくが死ぬかもしれないし、宮本君が先に死ぬかもしれない。しかし、確実なことは、イエス様の十字架と復活の救いを信じて救われているぼくらは、永遠のいのちの天国、復活の世界で意識が戻ることだ。そこですべてが新しくされて、再会があることだ。宮本君、キリスト信仰に立って、大胆に最期に向かう戦いを戦ってくれ!」
別れを告げて、ぼくは廊下をまっすぐに歩きました。廊下を曲がるとき、振り向いてみました。分厚いガラス越しに、宮本君が立っていました。枯れ木のような宮本君が、顔を笑いでしわくちゃにして、Vサインで見送ってくれました。ぼくも両手のVサインで応えました。4、5日の後、宮本君が召されたという電話が奥さんから入りました。
「このわたし自身こそは、復活である、(永遠の神の)いのちである。このわたしを信じる者は、たとい死んでも、再び生きる。生きていて、わたしを信じている者は全員が、決して永遠に死なない(死は一瞬の通過点だ)。あなたは、これを信じるか?」
マルタはイエス様に言う。「はい、主よ。この私自身、信じています、あなたご自身こそが、この世に来られるお方、神様のご子息、キリスト(救い主)であると」
(ヨハネ福音書11:25~27)
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