イースター、おめでとうございます。万軍の主に、心からの感謝と賛美をささげます。最近考えさせられることは、この国の将来を考えると、若い方々に安易に「将来に希望を持って」とは言えないことです。2千年前のイースターのこと、将来に希望を持てない2人の弟子がエマオ途上を歩いていました。
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(ルカ24:13〜15)
この2人の男は、エルサレムを離れてエマオへの道を歩いていました。自分たちの人生を懸け、信じて従ってきたイエス様が殺されたのでした。数日前まで、この国を変えてくださるとの希望を持っていた方が、権力者に捕らえられ、十字架刑という最悪の方法で処刑されてしまいました。なす術もなく、この2人は失意のうちにエルサレムを離れて道を急いでいたのです。
(1)寄りそってくださる方 「安心と感動」
2人は歩きながら、これからどうしたものかと論じ合っていると、1人の人物が寄り添って来られたのです。2人の話題はイエス様のことでした。その話題の本人が、一緒に歩いている。そして、彼らの会話に親しげに加わってくださいました(17、18節「『・・・話し合っているその話は、何のことですか』・・・クレオパというほうが答えて言った。『・・・あなただけが知らなかったのですか』」)。本人を前に、よくもそんなことをと思います。しかし、寄り添ってくださる方は徹底的に耳を傾けてくださいました。
(2)目を開かせてくださる方 「理解と納得」
この方は2人に向かって「愚かな人、信じない人、心の鈍い人」(25節)との激を飛ばし、エルサレムで起こった出来事を、十字架にかけられたご自身のことを、聖書から見事に解説されたのです(27節「・・・イエスは、・・・聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」)。つい先ほどまでとは反対に、彼らは心の内が燃やされ、大きな感動を味わいました。理解と納得を得られたのです(32節)。
一行は間もなく目的地の村に着き、2人が願って、この方と食卓を囲みました。この方が、パンを割いて分けてくださった瞬間、彼らの目が開かれ(31節「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」)、2人は、目の前にいるその方が復活されたイエス様であると気付くのです。驚くべきことに、彼らの悩み、煩いの原因、十字架にかけられ死なれた、あのイエス様が復活された。今、ここに生きておられる。ハレルヤ!
(3)行動へ導かれる方 「熟慮から行動へ」
その直後、彼らの前からイエス様は姿を消されます。イエス様がいなくなって、2人は体験したことを、よくよく考えさせられることになります(32節「そこでふたりは・・・。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』」)。経験したことを振り返ることから、熟慮する機会を与えられ、その後の2人は、見事に立ち上がります。33節を見てください。
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって(ルカ24:33)
不安と恐れに支配されていた2人は変えられ、確信を持って、彼らが本来いるべき場所、弟子たちのいる所へ戻っていくのです。復活の主に出会った2人は、目撃した事実を証ししないではおれません。勇気と希望を持ってエルサレムへ帰ると、何とそこで復活の主と再び出会うのです(36節)。その後の記録を見ると、イエス様はご自分の働きを弟子たちにバトンタッチされ、明確なビジョンを与えられました(48節「あなたがたは、これらのことの証人です」)。この弟子たちが、復活の証人となるのです。驚くべき使命が与えられ、キリストの弟子たちは、主のご計画(使徒1:8)の通りに世界へ出ていきました。
それから2千年がたち、2018年のイースターを迎えました。愛兄姉の皆様、この寄り添ってくださる方にあって、祈り、御言葉によく聴きましょう。必ずや目が開かれ、十分な理解と納得を与えられ、立ち上がることができます。私たちの人生の目的、存在の意味は、聖書が単純明快に示しています。御霊の力によって、この社会の中で良きわざと、福音伝道を行い、「復活の証人」として共に歩むことです。私たちの周りの方々のために、命の続く限りに共に働きましょう。確かに復活された、今も生きておられる主イエス様と共に、私たちは将来に希望を持って歩みましょう。皆さんの祝福を祈ります。
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