この問題に取り組むには、まず意味論に触れないといけません。3人が「神は一人しかいない」と言うとき、同じ一つの発言でも、それは三者三様、3通りの意味があるからです。最初の2つの概念は包括的で、3つ目の概念は排他的な意味を持ちます。
一人の宗教家は、「神は一人しかいない」と言うとき、こういうことを示唆しているのかもしれません。
「すべての宗教を信じる人たちは一人の同じ神を崇拝しているのです。しかし、彼らはそれぞれの名前で神を呼び、神の人格や存在について、異なる解釈をしているのです」(シク教の解釈)
ある人はこう言うかもしれません。
「崇拝されているすべての個人的な神々には、強調されるべき非個人的な要素があるのです。つまり、神々は同じではありませんが、一つの源から生まれたものなのです」(ヒンズー哲学の解釈)
最後の概念は、こうです。
「他のすべての神々を除外する、唯一なる神が存在します。その神は、その正しい名前、または、その性格や存在についての正しい解釈に基づいた正当な呼び名によって認められます」(キリスト教やその他の唯一神宗教の解釈)
最初の2つの解釈は包括的で、他のすべての宗教や神々を受け入れます。3つ目の解釈は排他的で、その他のすべての宗教や神々を排除するものです。
包括的な概念を選ぶ人々の憐(あわれ)みや包容力のある心には感銘を受けますが、以下の意見を提示したいと思います。もしも神が、さまざまな世界の視点から与えられた名前を受け入れて呼応するなら、神はご自身の性格について、混乱し矛盾した主張をすることになります。例えば、ゼウスという名前に神が呼応するなら、ギリシア神話に登場するたくさんの神々を認めることになります。もし神がブラーマン(ヒンズー教)やスグマッド(エッカンカー教)という名前に応答するなら、万物の究極の源は、実際には人格を持たない宇宙エネルギーであると認めることになります。もしもクリシュナという名前で崇拝されるなら、神は地上に存在された際に文字通り1万6108人も妻をめとっていたということになります。
もし神がエイン・ソフという名前に応答するなら、カバラの研究者の神は10の放射物を持つという主張に賛同することになります。サト・ナーム(シク教、「真実の名前」という意)という称号に呼応するなら、神はヒンズー教徒とイスラム教徒の神は同じであるというグル・ナーナクの主張を認めることになります。もしアラーという名に応答するなら、神は偏在する万能の霊であり、子はおらず(イスラム教の基本教義)、アラー以外の神はいないと認めることになります(イスラム教の重要な信仰告白)。しかし、ヤハウェ(旧約聖書で明示された名前)もしくはイエス(ヘブライ語でイェシュア、新約聖書で明示された名前)という名前に応じるなら、キリスト教の教えに賛同することになります。つまり、神は三位一体で父、子、聖霊から成り立ち、個としての性格を持った神であり、万能で、全知で、偏在し、超越的で、すべてにおいて完璧なお方で、十字架の贖(あがな)いの業を通してのみ、この神に近づくことができるのです。
聖書が正しいと仮定してみましょう。イエス・キリストが目に見えない神の唯一の顕現化した姿であり、彼の中に罪はありません。彼の判断はいつも正しく、人格にも欠点はありません(コロサイ1:15、詩編92:15)。もしも神がインドラ(ヒンズー教の古代の神)の名前で祈りに応えるなら、神は賢者の妻を誘惑し、その過ちの結果、体に千ものヨニス(女性器のシンボル)を罰として与えられたと認めることになります。私なら他人の名前など受け入れません。特にその名前の主が犯罪的で非倫理的な行いをする人ならば、なおさらです。そのような取り決めに神はお喜びになられるのでしょうか。
問題は、人類が数千年にわたり、目に見えない霊的な分野を定義付けようとして、多くの神々に、人間が作り出した称号、名前や物語、伝説を与えてきたことです。おそらく多くの人々は神を真剣に愛していたのだと思います。でも、神を愛することと、神を知ることには大きな違いがあります。私自身も神を実際に知るずっと以前に、神を熱烈に愛していました。神と個人的に出会ってから、神の真実のご性質を理解するようになりました。
さまざまな宗教において神に与えられた名前や称号の中には、イスラム教徒が神に与えた99ある名前の大半がそうであるように、神の性格や性質を正しく定義するものもあります。例えば、生ける神、永遠の神、至高の神、素晴らしき神、慈悲深い神、憐み深い神、などです。まぎれもなく、これらは真実の神の実際の性格的特徴です。しかし、いずれも神ご自身の個人的な名前ではありません。神の性格を示す正しい称号は多くの宗教で見つかるでしょうが、神ご自身を指す実際の名前とはまた別です。ですから、大切なことは、神の個人的な名前を正しく判別することなのです。
真実のたった一人の神を除いて、他の神々はすべて人間が創り出したものです。それらは人間が懸命に超自然の分野を解釈しようとして誤った結果なのです。これらの多くの神々に与えられた性格は、多くの点で神の真の性格を誤って伝えているため、神はこれらの名前を受け入れられないし、それらの名前に応答されることもないのです。さらに、もしも神を探し求める人がこれらの間違ってあてがわれた神の名前を用いるなら、その名前が言及する宗教の教義全体と関わりを持つことになります。もしも神がこれを本当に許されるとするなら、真実を推進することにおいて逆効果です1。
ヒンズー教の聖典では、神の聖なる名前ほど汚れをはらうものはない、と強く宣言しています(『シュリーマッド・バーガヴァタム』6章1節)。これが真実だとするなら(真実ですが)、人生の最も主要な目的の一つは、真実な神の名前(それは聖書にだけ見つけることができます)を知る神聖な探求なのです。道教の伝説的創始者である老子は、「究極の現実」は人格を持たない宇宙エネルギー体であると教えました。彼は認識していました。「吾(わ)れその名を知らず、これに字(あざな)して道(タオ)と曰(い)う」と(『道徳経』第25章)。「究極の現実」を知りたいと切望する人物が正しい名前を知らず、別の名前を創作するなんて、何と痛ましいことではないでしょうか。しかし、よくあることなのです2。
同じような事例として、シク教の創始者グル・ナーナクがいます。彼はおそらく最も誠実で純粋な人だったのでしょう。彼の心からの祈りには、神への真摯(しんし)な愛と正しい原理に対する情熱的な献身がうかがい知れます。
彼の人生の話は、特に彼が最大の努力をしてヒンズー教徒とイスラム教徒を融和させようとしたことなど、興味深いものです。グル・ナーナクは、神の素晴らしい名前を唱えることは「創造主のもとへ導く階段であり、神秘的な融和という幸福へ向かう上り道なのです」と主張しています。同じくだりには、「完全への道であり、名誉への階段」とあります(『ジャプジ』32章)。この表明には、偉大な真実があります。グル・ナーナクは正しい神の名前はサト・ナームであると教えました。真実の名前という意味です。しかし、これらの言葉は私たちが知りたいと願っていることを表現しているにすぎないのです。グル・ナーナクの意見に賛成です。神は真実の名前を持ちます。礼拝しながら神の名をつぶやくことは、喜びに満ちた神の臨在へといざなってくれるでしょう。でも、「真実の名前」とは実際には何なのでしょうか。これこそグル・ナーナクが知りたいと願っていたことであり、「真実の光」を求める人なら誰でも、正しい啓示に触れていたら、喜んでそれを受け入れたはずだと思います。
私はその答えを知っていると確信しています。ある契機となる歴史的瞬間に、神はその真実の名前のさまざまな側面を、聖書に登場する重要な人物たちに明かし、彼らはその識見を他の人々のために記録したのです。人間の名前も幾つかの名前、時には称号で成り立つように、神の真実の名前は、神がご自身に与えられたすべての名前と称号の連合体なのです。神は聖書で明示されたこれらの名前や称号に応答されます。なぜなら、これらの名前や称号に関連する性格や教義が、神のご性質、神の人間への対応、真の神の霊感を受けた教義基盤を正しく表明しているからです。
旧約聖書では神はご自身にさまざまな名前をお与えになり、後にヘブライ語で私たちのために翻訳されました。例えば、エロヒム(神)、エル・シャダイ(全能の神)、ヤハウェ・ラファ(われらの癒やし主)、ヤハウェ・マカデッシュ(聖別される神)など。後に神が人間の肉体をまとわれたとき、神はマリアに天使を派遣され、神の子の名前を何にすべきか述べられました。天使ガブリエルは喜んで宣言したのです。「その子をイエス(ヘブライ語でイェシュア、「救い」という意味)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21~22)。
この天から与えられた名前は、イエスがこの世に生まれた目的を完璧に言い表しています。彼は神が人間の体に具現化された存在で、世界に救いをもたらすために天から送られたからです。新約聖書で後に与えられた約束はいたって簡潔です。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:21、他にルカ1:31、申命記6:4、列王記上18:24参照)。このくだりでは「神の名前をどれか一つ」呼ぶように言っているのではありません。「神ご自身の、まさにその固有名を」と訴えているのです(もちろん、他の言語でのイエスという名前のつづりや発音も含まれます)。
イエスの名前を用いる以前、私は人間が与えた神の名を個人的に用い、失敗しています。私は心から神を崇拝していたのですが、神とのつながりを持っていなかったのです。真の救世主の真実の名前を呼んで初めて、本当の救いを経験し、真の神の霊に遭遇したのです。私たちが崇拝するのは同じ一つの神であるという論理を理解はしますが、これは真実ではありません。さらに、幾つかの宗教は無神論的で、全能の神を敬愛することに関心すら持ちません。また別の宗教は、大勢いる神々の集団の中で下位に属する従属的な神への献身を促します。ある人たちは、自分たちが信じた神なら誰であれ、天地創造の至高の神として、それぞれの神に誠実な献身を表明しています。そのような場合は、明らかに意図の共通性があります。永遠の父なる神を愛し、祈りの中で神と交信したいという願いです。しかし、その願いを成就させるには「門」を通らなければいけないのです(ヨハネ10:9)。
神と人との関係に関しては多くの概念がありますが、それを実現する方法はたった一つです。聖書は「主イエス・キリスト」の名前は「あらゆる名にまさる名」であり、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と述べています(フィリピ2:9、使徒4:12)。それは三位一体の神の名前なのです(「主」は父なる神、「イエス」は子、「キリスト」は油注がれた者、聖霊の油注ぎのことです)。神はこの名前に名誉を与えられます。この名前が神の真実な性格と、この世での神の現在の働きを証明しているからです。これは重要な点です。
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