まず初めに、すべての宗教が「全知全能の存在」を認めているわけではありません。宇宙は単に「因果関係」によって生まれたと考える宗教もあれば、「究極の現実」とは自然の力や意識レベルのことで、創造主のように、礼拝者と個人的に交流するものではないと誤解している宗教もあります。しかし、人格を備えた創造主を信じている人たちはどうでしょうか? 彼らは皆、同じ神を崇拝しているのでしょうか? いいえ、そうとも言えないのです。かなり広く捉えれば、確かに彼らは皆、すべての源である存在を見上げて礼拝しているのですが、実際にはその存在とつながっていない場合があります。
グレート・スピリットを崇拝するアメリカ先住民、ブラフマーを認めるヒンズー教徒、アラーを礼拝するイスラム教徒、アカル・プラク(永遠の存在)に祈りの歌をささげるシク教徒、アフラ・マズダー(智恵ある神)をあがめるゾロアスター教徒たちは、皆それぞれが、宇宙で最高の力であるとみなす唯一の存在に向けて祈りをささげています。時に彼らは、全能の存在に心を向けて、自分の宗教が定めた固有名詞ではなく一般的な呼び方で、「神様、お助けください!」とか「神よ、愛しています」と叫ぶこともあります。しかし、このような場合においても、自分の世界観に基づいて解釈した「神」と結び付けてしまっています。だから、それ自体が、生きた真の神と本当の意味でつながることを妨げてしまうのです。
「全知全能の神」だと解釈されているこれらの存在は、その人格や属性、呼び名がまるで異なるため、同一の存在でないことは文字通り明確であり、そう気付くことがとても大切です。把握すべき基本的な真理は、真のクリスチャンは理解をもって神を礼拝し、他の人々は理解せずに礼拝しているが、多くの場合、どちらにせよ礼拝していることに変わりはないということです。だから、ある人がもし全知全能のお方の本当のご性質を知らなかったとしても、その神に対する心からの愛に天が目を留めないはずはないと私は信じています。
本質的で重要な違いは、これらのさまざまな宗教の帰依者や信者は皆、神に向かって礼拝しているが、クリスチャン以外の人々は実際に神と親しく交わることができないという点です。使徒言行録10章では、百人隊長のコルネリウスが心を込めて神を礼拝しつつも、神と親しく交わる方法を知らなかったであろう様子を見ることができます。そこで神は彼に御使いを送り、ペトロを招くよう示しました。使徒ペトロがやって来て福音を伝えると、集まっていた人々の上に聖霊が下ったのです。神はコルネリウスの以前の行いを肯定したわけではありませんが、彼が神への本当の愛を持っていたので、救いを受ける正しい方法を彼に明らかにしてくださったのです。
同じように私も、神を知り、神と一つになる経験をする前にも、神を心から愛していました。「真の礼拝者」となるずっと以前から、神の「礼拝者」だったのです。イエスは遠い昔にこの奥義を、今でも難解な深い言葉で、サマリアの女に説明しました。ぶっきらぼうに「あなたがたは知らないものを礼拝している」と指摘してから、こう付け加えました。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ4:22~23)
霊による礼拝――この時代に、真に神を礼拝する者となるためには、霊が再生を経験しなければなりません。聖書に基づく見解では、人は体・魂・霊という3つの部分から成っています(テサロニケ一5:23参照)。体と魂は、まだ「救われた」状態にない通常の人間の中で優先的に機能している部分です。人間は「自分の過ちと罪のために死んで」おり、霊がほとんど機能しない状態になっています(エフェソ2:1)。
人間の霊は、イエスの血潮によって洗われ、新しく生まれる経験を通してのみ、救われて再生します。内なる人が再び生まれるこの経験を経て、内側に神の霊が宿ることにより、礼拝者は初めて生ける真の神と本当につながることができるようになるのです。新生したクリスチャンの内に流れる聖霊は、礼拝という形を取って外へ流れ出し、父なる神のもとへ戻っていきます。他の宗教に帰依する人たちは、とても宗教的で、徳が高く、愛に富み、謙遜で、超自然的なパワーにすら満ちているかもしれませんが、それでもなお、必要不可欠な真の救いという面が欠落しているのです。
真理による礼拝――この必要条件を満たす、主な5つの点があります。真理をもって神を礼拝するとは、いと高き方を、①心から、②正直に、③正しい方法で、④神の御名とご性質の真理を啓示によって受け止め、⑤聖書に書かれた真理のうちを歩み、その真理を日々の生活に適用することによって、礼拝することです。
ヨガの指導者として、私は最初の2つの点を満たしていましたが、最後の3つには欠けていました。私は心から、そして正直に神に向かっていました。しかし、聖書的でない手法を用いて神に近づこうとしていました。神を熱心に愛していました。しかし、父なる神との真に親しい交わりを経験したことがありませんでした――聖書に書かれた方法で神に近づき、その御名とご性質の真理を啓示によって受け止めた上で御前に出るまでは。これらの条件を満たしたとき、私にも神のご臨在の中へ入る恵みが与えられたのです。ただ礼拝者になるだけでは十分ではありません――もし本当の神を知り、神との真の関係を味わいたいと願うならば、私たちは「真の礼拝者」となるべきなのです。
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