カルマ(宿命、業)と輪廻転生の二元的教義によれば、魂の救済は人間の努力によるものとなっています。カルマヨガは、完璧な思考や発言、行動を目指すことで、否定的なカルマを自身から取り除くことに焦点を当てています。「解放」を求める人が、禁欲主義や善い行い、正しい行い、儀式、生贄(いけにえ)、聖地巡礼、瞑想などを通して、この目標に達するとき、その将来に有用なカルマだけを呼び込めるという考えです。過ちに妨げられず、そのような人格の清めが首尾一貫となれば、輪廻転生のサイクルから解放されるというのです。
この基本概念は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教、時にはシク教で見られます(シク教では禁欲主義に反対で、神の恵みに対する固い信仰がありますが)。他の神秘主義やニューエイジのグループ、エッカンカー教、カバラ、神智学、多くのヒンズー教の学者たちや指導者たち、その他の秘伝者たちは、輪廻転生を真の魂の過程として受け入れています。これらや唯一の地球の存在を説く中東の宗教などを含むこの他の世界のほとんどすべての宗教は、魂の救済という重荷を、人間の疲れた肩の上に負わせているのです。
「行いによる魂の救済」の最もふさわしい例として、仏教の基盤的教義が挙げられます。仏教は、仏陀が菩提樹(ぼだいじゅ)の木の下で「悟りを開いた」際、彼の世界観の基盤となる以下の見識に到達したと主張しています。
四諦(したい)
- 人生は苦(ドゥッカ、「不完全、虚しさ、はかなさ」の意味)で満ちている(苦諦)。
- 苦の原因は存在、繁栄、達成、快楽などの渇愛(タンハー、「飢え、渇き」の意味)である(集諦)。
- 苦を乗り越える唯一の方法(ニローダ)は渇愛に打ち勝つことである(滅諦)。
- 滅諦は以下の八正道によって達成される(道諦)。
八正道
- 正しい知識(正見)
- 正しい考え(正思惟)
- 正しい発言(正語)
- 正しい行い(正業)
- 正しい生き方(正命)
- 正しい努力(正精進)
- 正しい心掛け(正念)
- 正しい瞑想(正定)
すべてを「正しく」行うことで、時間の旅人は、マーヤー(幻影)、カルマ(仏教においては、因果応報の法則)、サンサーラ(輪廻〔りんね〕)からやっと解放されるという考えです。この道の信奉者は「4つの基本的悪:官能、自身の存在を永続させようとする欲望、間違った信仰、無知」を乗り越えようと努力しています。人格や生活、考え方において完璧な弟子は、涅槃(ねはん)(ニルバーナ、輪廻からの解放)の候補者なのです。ほとんどの仏教徒にとって、ニルバナは絶滅という意味ではありません。というのも、仏教徒は絶滅する自己が存在すると信じないからです。むしろ、それは個体と分離の終焉(しゅうえん)なのです。ある著者は説明しています。「主体性の否定は存続性の否定ではないのです」と1。
人々が目指してやまない霊性の山頂とは、ある側面において、他の宗教団体がサマディ、キリストの意識、あるいは究極の喜びと呼ぶものに類似しています。しかし、少し違うのです。多くのヒンズー教徒たちは、水滴が海に流れ込むように、自己はブラーマンにいずれ吸収されると信じています。伝統的な仏教徒たちは、耐え忍ぶ「自己」というものはないと信じています。よって、終末はその水滴が漠然と蒸発するような感じなのです。八正道を追求し、すべてを正しく行うのは、確かに立派な人生の目的です(私はこの目標を情熱的に追い求めた仏陀とその弟子たちに敬意を払います)。しかし、キリスト教の教えの中では、正しい知識、思考、発言、行い、生活、努力、心掛け、瞑想の解釈は、仏教による解釈と大きく異なり、相反するものなのです。この2つの世界観では、同じ1つの言葉が、まったく相いれない矛盾した考えを表しています。でも、疑いようもなく、八正道の全過程は、行いによる魂の救済なのです。人間の努力では到底登れない山に挑んでいるようなものです。
ある著者は説明します。「人間の立場は、仏教によれば、最高なのです。人間が自分自身の主人であり、人間の運命を裁くより高い存在や力のある存在はいないのです」2。対照的に、聖書は、私たちに魂の救済に関して神を信頼しなければならないと教えます。「主に従う人の救いは主のもとから来る。災いがふりかかるとき、砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる。主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる」(詩編37:39~40)。私たちは心からの悔い改め(神のみ心に沿った悲しみ)をすることで、神のもとに行く必要があるのです。「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」(詩編34:18)。最終的には、神の約束を純粋に信じなければなりません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
自らの罪を悔い改めた人々がイエスを心に迎えると、彼らの罪は赦(ゆる)され、神の臨在に触れ、死の際には天に迎えられるという約束を手にします(もしも彼らが本当に「生まれ変わって」いたなら、です)(エフェソ2:18)。ある聖書の箇所ではこう述べています。「体を離れて」とは、「主のもとに住む」ということです(2コリント5:8)。こうパウロが結論付けたのも不思議ではありません。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:1、8、9)
パウロは恵みによる魂の救済(神による過分な厚意)を信じていただけでなく、この約束の力を個人的に経験していました。キリスト教に改宗する以前、パウロはキリスト教徒たちを迫害し、信者たちの死をも招きました。カルマの教義でいえば、パウロは彼の暴力行為により厳しく罰せられねばならなかったはずでした。パウロ自身の証言によれば、彼は代わりに恩を受けたのです(1テモテ1:13~14参照)。彼は神に赦されたのでした。魂の救済とともに、彼は永遠の命を与えられ、後に福音を伝える最も偉大な使徒の一人となったのです。十字架の力の何という圧倒的な証しでしょう。特に、自分たちの失敗という袋小路に迷っている人々にとって!
もちろん、魂の救済は人生の苦悩すべての絶対的解決法ではありません。魂の救済を受ける人もまだ葛藤することがあるかもしれません。苦しい状況を経験するかもしれません。中には極めて難しいケースもあるでしょう。失敗もするでしょう。時には重大な結果を招くかもしれません。この世で生きている限り、これらと異なる保証はないのです。神の子であるイエスは、父なる神と共に完全な歩みをしたにもかかわらず、試練を受け(ヘブライ2:18)、苦難に堪え(1ペトロ1:11)苦しまれたのです。イエスは弟子たちにも警告しました。「あなたがたは、世で苦難がある」。でも、イエスは続けて諭しながら命令されました。「勇敢を出しなさい」(ヨハネ16:33)。
聖書の最も栄光ある約束の一つは私たちにこう教えます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18、2コリント4:17参照)。いずれ神の子どもたちの苦しみはやみます。永遠が一度到来し、私たちが究極の喜びと平安を受け継ぐのは、神が私たちを神との関係に引き入れられた要因である「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるため」(エフェソ1:6)なのです。そうです、最終的にはすべて私たちにではなく、神の称賛へと帰するのです。
私は何度も言ってきましたが、再度言います。「宗教は神(あるいは究極の現実)へ到達しようとする人間の努力です。しかし、イエスは人間へ手を差し伸べる神の側からの努力なのです」。この発言の真理に気付くなら、あなたの人生はすっかり変わるでしょう。
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