父に連れられ、バングラデシュから政治難民としてフランスへ国外逃亡した天才チェス少年ファヒム。彼がフランスの全国大会で優勝したことで国民の注目を集め、結果として家族でフランスへ移住できるようになったという実話を基にした映画が本作である。8歳の少年ファヒムのひたむきさと、彼を温かく見守る父親の包容力が相まって、観る者に感動を与える作りとなっている。
母国バングラデシュのチェス大会で勝利を重ねるファヒム。彼のその才能を早くから見いだしていた両親は、自分たちが反政府組織に属していたため、ついにわが子にまで危害が及んでいることを知る。そして身の危険を感じたファヒムの父親は、息子を連れてフランスのパリへ赴き、新たな人生をスタートさせようとする。ファヒムには「フランスにいる世界チャンピオンに会わせてあげる」と持ち掛け、彼をその気にさせていた。
しかし、何のつてもない中でパリの街中を徘徊(はいかい)することしかできなかった親子は、ついに難民センターの職員に保護されてしまう。ファヒムたちには一定の自由が保障されていたものの、難民としての申請をしなければならず、それがフランス政府によって受け入れられない場合、父親は強制送還、ファヒムはフランスの孤児院送りとなってしまうのだった。
そんなリスキーな状況であることを、父親は息子に告げられなかった。そして、フランスへの旅の目的であった「世界チャンピオン」に彼を会わせ、チャンピオンが経営するチェス教室に通わせるのだった。喜んで強敵たちと対戦するファヒム。最初はなかなか勝てないこともあったが、次第に教室の仲間たちとも打ち解け、そしてめきめきと腕を上げ始めた。
だがそんな時、父親が申請していた難民申請が却下されてしまう。刻一刻と強制送還の時が迫りくる中、ファヒムは全国大会へ向けて最終調整に入るのだが――。
ストーリー的には、チェス大会で優勝したバングラデシュ出身の少年が、家族の未来を引き寄せたサクセスストーリーの域を出ない。副題に「パリが見た奇跡」とあるため、すでに物語の結末はネタバレしている。最後にファヒムが優勝して、事態が一気に動き出し、最後はハッピーエンドとなる。
だが本作は、単なる「サクセスストーリー」に収まらない、さまざまな人間模様を活写している。また、こういった出来事が起こり得る「現代ヨーロッパ」の実情を見事に描き出している。そのあたりをしっかりと踏まえて鑑賞するなら、また一味違った感動を得ることができるだろう。
本作では、難民問題に揺れる欧州諸国の苦悩も描かれている。国外逃亡によって難民となることを余儀なくされた親子を温かく受け入れる難民センター職員のような存在がいる。一方で、自国からの難民申請者を優先的に受け入れさせようと、ファヒム親子の実態を正確に通訳しなかったアラブ系男性のような存在もいる。こうしたことは、現実に起こり得ることなのである。
難民申請をすれば、すべての人が受け入れられるわけではない、という事実もまた重い。本当は受け入れてあげたいのだろうが、そんなことをしていたら国全体が混乱してしまう。そんな懸念を抱きつつ、しかし「職務として」難民となった人々と向き合わなければならないという矛盾した実態も、本作ではリアルに描かれている。
米国のドナルド・トランプ大統領が「米国第一主義」を訴えたが、それ以上に深刻な実態が欧州諸国にはあるということだろう。国によって受け入れ態勢がまちまちであるのに加え、各国が地続きであるため、難民たちがどこに行ってしまうか、その足跡をたどることも容易ではない。だから本作では、チェス大会に出場する資格にまでこだわりを見せる大会委員が出てくる。ファヒムを「合法的」に出場させないためなのだが、映画では完全に悪役として描かれてしまうことになる。だが、実態としては「そうせざるを得ない」のだろう。
こういった政治的に複雑な諸問題が絡み合う中で、ファヒムはチェス大会に出場することになる。映画では、そのあたりをファヒムの葛藤と父親のそれを対比させながら、親子で異なる問題にぶつかりながらも、最終的な解決はファヒムが大会で優勝することによって得られる、という流れを作っている。彼が最後まで抱き続けたもの――それを本作では「希望」と表現している。
観終わって、こんな聖書の言葉が浮かんできた。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:13~16)
本作には、直接的なキリスト教的要素は出てこない。しかし、ファヒムの実績が最終的に認められる過程には、たとえ世俗化してしまったかつてのキリスト教国フランスであったとしても、その背景に人々の心を導き、首相の思いを彼に向けさせた「何か」が働いていたと思わせるのに十分である。それはファヒムの努力のたまものであると同時に、そういった思いを彼の中に与えた「神のみこころ」と評してもいいのではないだろうか。
■ 映画「ファヒム パリが見た奇跡」予告編
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