「何というタイトルだ!」とお怒りになる前に、次の出来事を知ってもらいたい。4月10日付の米CNN(日本語版)のニュースで、以下のような記事を発見した。
「インド北部から数十年ぶりにヒマラヤ眺望、新型コロナ対策で大気汚染改善」
インド北部のパンジャブ州で、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見えるようになったというのである。原因は新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、インドでロックダウン(都市封鎖)を行ったところ、産業がほぼストップしたため、大気を汚染する有害物質が急激に減ったためだという。
このような記事を読むと、何だか足をすくわれたような気がしないだろうか。あれだけ各国首脳が世界各地で集まり、やれサミットだ、やれ地球温暖化対策会議だ、と躍起になっていたときは一向に改善されなかったものが、わずか数カ月で改善の兆しを見せ始めたのだから。
上記のヒマラヤの記事は、私たち人間の存在意義をあらためて問うものである。一般的に私たちは「生きている」と思うが、実は「生かされている」という、まさに「主客逆転」を暗に示しているといえよう。今まで当たり前のように思ってきたことが、実は砂上の楼閣のような危うく相対的な世界でバランスを取っていたのだということに気付かされる好例である。
同時に、人間が何と強欲で罪深いものであるかということを、今回のコロナ騒動は私たちに突き付けているような気がしてならない。
最近のメディアはコロナ騒動を取り上げるが、どうもその語り口はネガティブなものが多く見受けられる。そんな情報ばかりを洪水のように受けていると、いつしか本当に心身のバランスを崩してしまう。そこで今回は、あえて非難を承知の上で、コロナ騒動から私たち信仰者が受け止めるべき「ポジティブ」な側面を切り取ってみたいと思う。聖書にも次のように書いてあるではないか。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:18)
聖句を勝手に切り取ってこじつけるわけではないが、パウロを通して神様も「すべての事について、感謝しなさい」と語られているのだから、信仰者としては「コロナ騒動のポジティブ面」を探すことは、決して不自然なことではないだろう。2回に分けて取り上げるそれぞれの事例に共通するのは、上記のヒマラヤの記事と同様に「主客逆転」がテーマになっている。
教会のメディアリテラシーの向上
情報ハイウェイは常に忙しい。一旦それに乗ってしまうと、もはや後戻りはできない。特に1990年代後半から始まったインターネットは、世界を一変させたといっていいだろう。いまや4Gは当たり前、今年からは5Gがさらに普及していくと予想される。
このように急激に変化していく社会にあって、教会はどうもその動きに乗れていなかったように思う。もちろんそういったメディアに特化して、すでにネット配信や格好いい動画や映像を駆使する礼拝をささげていた教会もあるだろう。だが、それはごくごく一部だった。例えば、私がかつて牧会していた教会など、いまだにOHPを大事に取っていた。「場所を取るから捨てましょう」と言っても、「もしかしてまだ使うかも」という声が多くあり、倉庫に大事にしまわれる始末。
少し大きな教会になると、PA関係の奉仕者がいて、新しいスタイルの礼拝の可能性をいろいろと提案することができよう。だが、往々にしてそういった要望は通らないものだ。特に機材の値段が高いわけではない。無料のソフトもあり、今までの機材を用いることで十分「新しいこと」ができるはずだ。だがそれに難色を示す「お偉方」がいる。その最たる理由は「よく分からないものを礼拝に持ち込まれては困る」というものだ。
しかし今回のコロナ騒動は、そうは言っていられない状況を生み出してくれた。避けるべき「三密」が生じる最たる場所の一つが教会だからである。人から人への感染を避けるためには、いつものように礼拝を持つことができなくなる。では礼拝をやめるのか? いや、そんなことはクリスチャンとして絶対にできない(と考えるのが福音派だろう)。そこでやっと、ZoomやLINEを使ってのライブ配信によるオンライン礼拝へとたどり着く。ここに至って、PAやメディア関係で教会を支えてきた奉仕者たちの出番である。彼らがいなくては教会の礼拝が完全にストップしてしまうのだ。
私も幼少の頃からOHPの奉仕、プロジェクターの奉仕、そして特別な集会のビデオ撮影など、専門家ではないが、一通り「さわる程度」には扱ってきた。そこで感じたのは、教会は本当に「メディア後進業界」ということである。それを指摘し、前に進ませようとしても、「分からないから」「皆がついてこれないから」という後ろ向きな発言で頓挫するのがオチだった。
だが、「コロナのおかげ」だろうか。今や多くの教会がユーチューブを使ったり、フェイスブックを使ったりして、礼拝をライブ配信、または事前録画した礼拝の映像を流すということをしている。しかも、賛美の場面では歌詞が表示されたり、場面転換に一工夫も二工夫もこだわりの後が見受けられたりする。
コロナ騒動がいつ収束するのか分からないが、確実にいえるのは「ポスト・コロナ時代」になったとき、私たちの礼拝はかつてとは比べものにならないくらい「進歩」しているだろう。
次回はもう少し教会の本質的な部分、「交わり」について「コロナのおかげ」を考えてみたい。(続く)
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