前回に引き続き、新型コロナウイルスから受け止めるべき「ポジティブ」な側面を切り取ってみたいと思う。前回は、教会のメディアリテラシーが向上していることをお伝えした。さて今回はどんなテーマで?と考えた結果、少し神学的なテーマに踏み込むことにした。しかし中心は前回同様に「主客逆転」である。
“What is ~?“ と問う機会
乱暴な言い方をお許しいただくなら、教会とは現実的には「集まってナンボ」の集団である。かつて初代教会時代は、まさに皆が自分の持ち物を売って集まり、共同生活をしていたという。それ以来、私たちは常に人が集まることを願い、やがて「いかに多くの人が集まるか(集められるか)」に心を砕いてきた。
その在り方は、現代でも変わらない。米国では競争過多から自然淘汰され、巨大教会はさらに大きく、小さな教会は閉鎖するか小さな集団で結束を強めていった。スケールの違いこそあれ、日本でも千人に手が届きそうなわずかな「メガチャーチ」と、100~300人ほどの「大教会」、そして平均的な30人程度の「日本の教会」という構図ができ上がってきた。
だが今回のコロナ騒動で、教会堂という「箱もの」が有名無実化されつつある。つまり、わずか数人の開拓教会も創立100年以上の老舗教会も、皆一律に「教会に集まれない」という異常事態に巻き込まれたのである。そこで人々が注目したのがZoomやユーチューブなどによる「オンライン礼拝」である。
おそらく「コロナ騒動が収まるまで礼拝中止」という、ある種の「英断」をした教会以外は、大小の規模を問わず、ネット経由の礼拝へ移行せざるを得ない。そこであらためて思わされるのは「礼拝とは何か?」という問いである。このことは、礼拝のみならず、「説教とは何か?」「教会とは何か?」さらに社会全体に目を向けるなら、「学校とは何か?」「働くとは何か?」と、この「What is ~?」という問いは拡大していくことになる。
そしてあらためて考えさせられることは、いつしか私たちが「当たり前」と思ってルーティーンのようにこなしてきた「クリスチャン生活」、日本人としての「社会生活」には、本来とても大切な意味が込められていたのではないか、ということである。
例えば、礼拝。今はなかなか集まれない。そしてZoomなどで時間を決めてモニター越しに相手の顔を見る。その瞬間、喜びがあふれてこないだろうか。「この人も1週間、無事に過ごせたんだな」と熱いものが込み上げてこないだろうか。さらに、礼拝を配信しているユーチューブのチャンネル登録数が増えたり、礼拝のライブ配信にアクセスしている人の名前が表示されたりするとき、場所は違えど「同じ礼拝」をささげているという「一体」感(一つの単語としての「一体感」ではない。「一体」という感覚を、リアリティーをもって受け止めることである)を味わうのではなかろうか。
ことほどさように、私たちが何気なく行ってきた所作に対して、「これはどういうことか?」と考える機会を「コロナ」は与えてくれたといえる。事実、そのことについてあれこれと(ネットで)牧師たちと語り合うこともできるし、単なる神学講義の一環として「礼拝とは何か?」を考えるのではない、文字通り「今そこにある危機」を実感するこの時だからこそ、リアリティーをもって私たちの「信仰生活」に向き合うことができるのではないだろうか。
聖書にもこのように書かれている。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)
メガチャーチだろうと開拓教会だろうと、「同じキリストの体なる教会である」と言うことはたやすい。しかしその意味を、リアリティーをもって受け止められるのは、まさに「今」だ。教会が建物や信者数ではなく、(モニター越しであっても)そこにキリストを信じる者たちが集まっているかどうか。その(バーチャル)空間にキリストが臨在しているかどうか。今までは形而上学的な「神学論議」と思われていたトピックスが、リアリティーをもって私たちに迫ってきているのである。このまたとない千載一遇のチャンスを逃す手はない。しっかりと考え、心から感動する「教会」を紡ぎ出していきたいものである。
新たな「感動」の創出
これが最も新鮮な驚きであろうか。よくフェイスブックなどで「バーチャルクワイア」なる投稿を目にする。画面が分割され、各々のスマートフォンなどで録画した映像と音源を巧みにつなぎ合わせ、1曲に仕上げるという映像である。
その技術や演出がコロナ騒動以後、数段にレベルアップしていることを感じる。数年前からこういった試みはあったが、まだその時は「こんなことできますよ」的な物珍しさが前面に出ていた。しかし例えばこの映像をご覧いただきたい。
これは、米テネシー州ナッシュビルにあるクライストチャーチのクワイアによるバーチャルクワイア映像である。私が連載している「ナッシュビルからの愛に触れられて」に登場するあの教会である。よく見てみると、子どもやお年寄り、そして意外なあの人が出てくる。早速どうやってこのプロジェクトを進めたのかを、クライストチャーチの友人に尋ねてみた。その友人によると、「こんな時だからこそ、クワイア以外の皆さんで一緒に歌おう」という機運が教会内に高まってきたという。その中で、クワイアのみならず、参加できる教会員有志でこの動画を作成したとのことであった。
そういった「感動」もまた、教会の在り方をいい意味で変革していくことになるだろう。おそらくこれに類することが日本の教会、キリスト教界でも起こりつつあるはずだ。ぜひこのことを覚えておきたい。すべて、とは言わないが、こういった変化を生み出すきっかけとなったのは、他でもない「コロナ」である。
「分かってはいるけど、やってこなかった」教会本来の働きを、このコロナ騒動は私たちに気付かせてくれたのかもしれない。(終わり)
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