国内繊維メーカー大手・倉敷紡績(クラボウ)の2代目社長を務め、倉敷絹織(現クラレ)を創業、さらに中国銀行や中国電力の礎を築いた実業家・大原孫三郎(1880~1943)。教育や社会文化事業などの社会貢献にも熱心に取り組み、大原奨学会や倉敷中央病院、大原美術館を設立するなどした。
地方の一企業にすぎなかった倉敷紡績を全国規模の会社にまで成長させた大原の口癖は、「儂(わし)の眼には十年先が見える」だった。常に将来を見据えて先駆的な取り組みを行ったその精神は、最近、他企業に先駆けて国内初となる新型コロナウイルスの検査キット発売を発表した現在の同社にも連綿と引き継がれている。
「岡山四聖人」の一人、石井十次に感化を受け、キリスト者となった大原は、その事業においてもキリスト教の影響を強く受けている。「余がこの資産を与えられたのは、余の為(ため)にあらず、世界の為である。(中略)余は其(その)世界に与えられた金を以(もっ)て、神の御心に依(よ)り働くものである」。そう言い残した大原の信仰の歩みをたどる。
誕生、東京での放蕩生活
大原孫三郎は1880(明治13)年、小作人2500人以上を要する岡山県倉敷市の大地主であった大原家で、父・考四郎、母・恵以(すえ)の三男として生まれた。すぐ上の兄は生後間もなく亡くなり、長男・基太郎(もとたろう)も20歳で急逝したことから、孫三郎は大原家の跡継ぎとして甘やかされて育てられた。東京遊学を夢見て16歳で上京。ほどなく東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。しかし親元を離れて自由の身となったことから、次第に勉学から遠ざかり、悪友に誘われるがまま花柳界にも足を踏み入れて遊ぶようになる。ついには高利貸しからの多額の借金により帰郷できないほどになり、まさに「放蕩(ほうとう)息子」の生活を送る。
そうした状況から、義兄の原邦三郎が東京までやって来て、孫三郎を倉敷まで連れ帰る。邦三郎が調べると、孫三郎の借金は元利合計で1万5千円に上った。当時は1カ月15円で十分な生活ができ、総理大臣の年俸が1万円という時代だった。60歳を越えた考四郎を助け、孫三郎の後見的役割を担っていた邦三郎は、借金解決のため再び上京するも、そこで脳溢血(のういっけつ)により32歳で急逝。慕っていた義兄が自分の不始末の処理に奔走する中で亡くなったことは、孫三郎にとって大きなショックで、生涯にわたる呵責(かしゃく)となった。
石井十次との出会い
倉敷で後悔と自責の日々を送っていた孫三郎は、東京の下宿時代の友人、森三郎が二宮尊徳の『報徳記』を送ってくれたのをきっかけに、読書に多くの時間を割くようになる。また倉敷の老舗「林薬局」の主人であり、同志社で学んだキリスト者でもあった林源十郎からは聖書を読むことを勧められ、岡山孤児院の創設者、石井十次を紹介される。
孫三郎が最初に石井と会ったのは1899年、近所の小学校の校庭で開かれた岡山孤児院の音楽幻灯会でのことだった。孫三郎はこの時、感動のあまり所持金すべてを寄付するほどだったという。その後、孫三郎は石井の勧めもあり、聖書を20ページ以上読むことを日課とするようになり、また日記を付け始めるようになる。
石井との出会いにより大いに変えられることとなった孫三郎は、1901年9月20日の日記に次のように記している。
神が生(私)をこの社会に降し賜って、而(しか)も末子である生を大原家の相続人たらしめられたのは、神が生をして、社会に対し、政治上に対し、何事かをなさしめようとする大いなる御考に依(よ)るものだと信ぜざるを得ない。この神様より生に与えられたる仕事とは生の理想を社会に実行するということである。
孫三郎はその後も、岡山孤児院を度々訪問し、石井が1914年で亡くなるまで親交を続け、石井の孤児支援事業に対しては金銭的な援助を惜しみなく続けた。
20代で結婚、受洗、社長就任
1901年、21歳の時、後に広島県議会初代議長となる石井英太郎の四女、18歳のスエ(結婚後、寿恵子に改名)と結婚。その後、病気のため1年ほど養生生活を送るが、結婚してから3年後には、病気も治り考四郎が70歳を迎えたことから、24歳ですべての家督を相続する。
1905年に同志社出身の牧師、溝手文太郎から洗礼を受ける。翌年には、林らと共に25人の設立会員の一人として、日本組合基督教会(現・日本基督教団)倉敷教会の設立に携わり、溝手を初代牧師として迎えた。4代目牧師の田崎健作とは特に親交が厚く、寿恵子が危篤に陥った際には、妻が会いたがっているとして、京都に転任していた田崎を呼び寄せるほどだったという。
初めは倉敷紡績に一社員として入社した孫三郎は、女工の労働環境改善に取り組み、会社と女工の間に「飯場頭(はんばがしら)」が請負として入って法外なマージンを取る「飯場制度」を全廃したり、衛生上の問題などもあった寄宿舎の改善に取り組んだりした。1906年に26歳で父の跡を継ぎ二代目社長に就任すると、労資の利害が一致する共存共栄を目指し、社内改革をさらに推し進めていった。
経済性と倫理・道徳性の両立
孫三郎は経営面でも果断な施策を行い、事業を拡大した。紡績業界の再編が進み、他社にのみ込まれそうな危機にあったときも、周囲の反対を押し切って自社の資本金を上回る金額で他社を買収。その後に訪れた好景気に後押しされながら、拡大した事業を軌道に乗せていった。その他にも、父から引き継いだ倉敷銀行などが合併してできた中国銀行の初代頭取に就任。さらに幾つかの電力会社を合併して中国水力電気(現中国電力)を設立したり、経営多角化を図る中で倉敷絹織(現クラレ)を設立したりしていった。
孫三郎の取り組みは営利事業だけでなく、社会文化的な事業にも広く及んだ。社会問題の根本的な解決を願い3つの科学研究所を設立。従業員への医療充実を図るため設立した倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)は、一般市民にも開放した。さらに大原奨学会の支援により東京美術学校(現・東京芸術大学)で学んだ児島虎次郎が収集した西洋絵画などを基に、日本初の西洋美術館である大原美術館も設立した。
利潤追求一辺倒の世相の中、経済性と倫理・道徳性の両立を目指した孫三郎の生き方は、キリスト者である石井や愛読した聖書から大きな影響を受けたとされるが、倉敷での謹慎中に読んだ『報徳記』の影響もあるという。『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』の著者である兼田麗子・桜美林大学准教授は同書で、「孫三郎の社会貢献(フィランソロピー)に対する考えと行動は、まさに、この報徳思想と聖書の教えからの影響が大きかったといって間違いないだろう」と語っている。
祈られる夢見て天に凱旋
狭心症の発作を度々起こすようになっていた孫三郎は、60歳を迎える前にあらゆる役職を退き、その事業のほとんどを一人息子であった總一郎(そういちろう)に譲った。1942年秋頃からは症状が悪化し、翌43年は元旦から発作を起こすほどだった。1月18日朝、枕元にいる總一郎に、見ず知らずの人まで自分の回復を祈ってくれる夢を見たと言い、「ありがたくて、ありがたくて」と涙を流しながら語ったという。そしてその日の午後に、62歳でその生涯を閉じた。奇(く)しくもこの日は、念願の東京遊学のために倉敷を出発したのと同じ日だった。