1862(文久2)年8月3日。ここは岩手県盛岡。南部藩の勘定奉行新渡戸十次郎の屋敷は喜びに包まれていた。この家の三男が生まれたのである。
ちょうどこの日は、子どもの祖父に当たる新渡戸伝が苦労して開墾した三本木原(青森県十和田市)の農地で初めて米の収穫があったことから、子どもは稲之助と名づけられた。
「稲のようにすくすく育ち、今におじい様のように立派な人になるんですよ」。母のせきは子どもを抱いてあやしながら言うのだった。
「めでたいこっちゃ。伝さんが汗水たらして耕したこの土地で、こんなにたくさんの米がとれたとはな」。「まったくだ。それに、こんなめでたい日に、伝さんのお孫さんが生まれたんだと」。三本木原の農家の人々は自分のことのように喜んで盛大な祭りを行った。
新渡戸伝は三本木原の人々から特別に尊敬され、慕われていた。彼はもともと南部藩の武士だったが、幕府の命に背くような言動をとったため、お咎めを受けた父親と共に浪人になった。
しかし、彼には驚くべき才能があった。彼は当時世の中から蔑視されていた商人に近づき、商売の方法を学び取って行商をやり、家族を養った。そうしながらも、その目を未開の原野に向け、息子の十次郎と共に開拓事業を始めたのである。
そして、森林、原野を切り開き、十和田湖から水を引き水路を作った。数年の苦労の末、荒地は農作が可能となるような田畑に生まれ変わったのである。
こんな大事業を成し遂げても、伝はそれを自分の手柄にすることなく、誰にも親切に接し、特に農民に農業の指導をしてやり、少しでもその生活が楽になるようにさまざまな方法を考えたので、彼を尊敬しない者は一人もいなくなったのである。
中には新渡戸伝を神様として神社に祭ろうと考える者すら出てきたが、伝は手を振って言うのだった。「わしは神様なんかじゃない。皆さんの仲間だよ。みんなで力を合わせて土地を耕し、この地方を日本一の米の生産地にしようじゃないか」。息子の十次郎はやがて盛岡の藩主に召し抱えられ、勘定奉行となった。
こうして武士の家に生まれた稲之助は、稲穂のようにすくすくと育っていった。上には兄が2人、姉が4人おり、皆末っ子の彼をかわいがり、遊ばせてくれたが、彼は近所の子ども相手にチャンバラごっこをして遊ぶのが好きだった。
5歳くらいになると、彼にはっきりした性格が表れてきた。普段はおっとりした優しい子だったが、何かを主張するときには決して譲らないのである。また、曲がったことが大嫌いで、少し年長の男の子が年下の子どもをいじめているのを見るなどしたときは、飛びかかってゆき、その大きな子の上に馬乗りになって頭をポカポカ殴ることもあったので、母せきはハラハラしどおしだった。
それから程なくして、新渡戸家に恐ろしい災難が降りかかった。この頃父の十次郎は盛岡藩主の留守役を務める重要な任務に就いており、盛岡と江戸を行き来していた。ある時、彼は藩の窮乏している財政を助けるために藩で生産した生糸をロシアの商社に売ってはどうかと進言した。
ところが、時代は外国人を排斥しようとする攘夷(じょうい)思想が国中にみなぎっていたところだったので、たちまち藩の重臣たちの反感を買い、留守役を解かれ「ちっ居」(自宅謹慎)を命じられた。さらに禄(給料)100石も断たれたので、新渡戸家は窮乏のどん底に陥り、十次郎は苦悶のうちに死去した。
「お父様は強い武士なのに、どうしてこんなお咎(とが)めを受けて死ななきゃならないの?」稲之助は泣きながら訴えた。すると、せきはその体を抱きしめて言うのだった。「お父様は立派な武士です。堂々と正しいことを述べたのですからね。お父様もおじい様もみんな信念のために苦しみを我慢したのです」。この母の言葉は、稲之助の胸に深く刻まれたのだった。
せきは武士の妻らしく、泣き言ひとつ言わず、その細腕で子どもたちを育てるために働き出した。彼女は裁縫が得意だったので、つくろいものの内職をしてわずかなお金を稼ぎ、家族を養った。
祖父の伝もこの一家を気にかけ、畑で出来た作物を届けたり、孫たちを自分の家に預かっていろいろなことを教えたりした。「のう稲之助。父がなくとも、引け目を感じることはないぞ」。彼は一番目をかけている末っ子の稲之助をこう諭すのだった。
「自分が正しいことをしていれば、天が味方してくださる。恐れるものは何もないのだ」
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<あとがき>
新渡戸稲造といえば、おっとりした優しさとともに、不正に対しては断固としてこれに抗議する激しさを併せ持つ人――との印象を受けるものですが、この性格は主として祖父、父親、母親の血を譲り受けているように思われます。
祖父の伝は、不毛の土地を開墾し、水を引いて人々の生活が少しでも楽になるようにと、これを農地に変える偉業を成し遂げた人でしたが、もともと南部藩の武士であった彼は、幕府の命に背いて浪人に成り下がりました。
父の十次郎も盛岡藩の勘定奉行でしたが、藩主に意見したためにこれを咎められ、役職を召し上げられ、俸給も断たれ、失意のうちに病死したのです。母せきも武士の娘として愚痴ひとつ言わずにこの運命を受け入れ、その細腕で7人の子どもたちを立派に育て上げ、夫の汚名をそそぎました。
思えば稲造の正義感は、このように身内の人たちの反骨精神を受け継いだものであり、これこそ彼が国際人として国連の事務次長を務める器とされたゆえんでしょう。
(※これは史実に基づき、多少のフィクションが加えられた伝記小説です。)
(記事一覧ページの画像:新渡戸記念館提供)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。