竹内洋介監督の言葉によるなら、「映画『種をまく人』は、長年追い求めてきたヴィンセント・ヴァン・ゴッホの人生と、東日本大震災の直後に被災地で見た一輪のひまわり、そして震災の翌年に誕生したダウン症の姪(めい)との関わりによって生まれました」ということである。
第57回テッサロキニ国際映画祭で最優秀主演女優賞を、当時11歳の竹中涼乃(すずの)が史上最年少で受賞したのを皮切りに、ロサンゼルス・アジアン・パシフィック映画祭では、グランプリ、最優秀脚本賞、最優秀主演男優賞(岸建太朗)、ヤングタレント賞(竹中涼乃)の4部門を獲得し、一躍注目を集めることになった。しかし形態はあくまでも「自主製作映画」である。そのテイストは、確かに竹内監督のこだわり尽くした世界観が色濃く表れている。
最初の20分くらいは、ほとんど何の事件も起こらないため、退屈な思いをさせられる観客もいるだろう。しかし、その後に起こる「ある事件」を機に、画面から伝わってくる緊張感、ヒリヒリ度は、そんじょそこらのホラー映画を簡単に蹴散らしてしまうほどの圧迫感がある。
後半にいくほどテンションは静かに高められ、観ているこちらの心臓がバクバクしているのが分かるほどであった。しかし対照的に、画面上では何も表立った「事件」はその後起こらないため、このアンバランスさが観客を宙づり感覚に酔わせてしまうのだろう。竹内監督の力量は確かなものである。
竹内監督がインスパイアされたゴッホの言葉とは、次の言葉である。
未来には、より大きな愛がある。だから我々は喜び、来たるべき生活を信ずるのだ。
生前は「売れない画家」であったゴッホが、その悲惨な現状を見つめながらも語った希望の言葉といえる。加えて、映画の公式サイトには、聖書の次の言葉が掲げられている。
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔(ま)いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:4~8)
イエスのたとえ話の中でも、最も有名な物語の一つである。本作のタイトル「種をまく人」は、ゴッホの作品名でもあり、またこの聖句とも関係する。
本作で語られるキーワードは、「ゴッホのひまわり」「聖書の種まきのたとえ」「障がい」、そして「東日本大震災」ということになろうか。一見、バラバラに思える各々のピースをつなぎ合わせると、そこに薄っすら見えてくるのが「人の罪の姿」である。
わずか11歳ながら、取り返しのつかない罪を犯してしまう主人公の知恵(竹中涼乃)、その彼女を最も愛し、寄り添っていると思い込んでいた両親。しかし知恵のある「告白」を聞いた途端、仲むつまじかったはずの家庭に、埋められない数々の溝が生じていたことが浮き彫りにされていく。
そして、彼らを見つめる親戚や第三者の目が、彼らの抱く「罪性」をさらに膨らませることになる。このあたりの展開は、まさに「市井の人々の中にある深い闇」として秀逸なものである。たった一つのわずかなインクの染みが、不用意に洗濯することで白いシャツ全体を汚してしまうように、少女の犯した「罪」に翻弄されるうちに、大人たちの「罪性」がさらに大きな被害をもたらす様は、やはりどこまでいっても「人間は罪深い存在」であることを私たちに教えてくれる。
本作には、宗教的な説教臭さも、人間の良心が奇跡的にすべてを解決するような牧歌的人間賛歌もない。あるのは、どこにでもいそうな少女と、これまたどこにでもいそうな両親、そして彼らを取り巻く友人、親戚、学校の先生たちである。名探偵が犯人を追い詰めるような善悪二元論的な展開もない。2時間かけて展開するのは、ヤコブ書に書かれているような人間の姿である。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6~8)
そんな中、ある種「人間離れ」した存在として登場するのが、主人公・知恵のおじさんに当たる光雄(岸建太朗)である。彼は精神を患い、長い闘病生活を経てやっと退院してきたという設定である。その彼が突然の不幸に襲われ、「心を患った」という過去の故にいわれなき偏見の目で見られることになってしまう。
しかし当の本人は、ほとんど言葉を発せず、ある時からただ黙々と「ある行為」を繰り返すことになる。そんな光雄の行為がラストにある変化をもたらすのだが、それは観てのお楽しみというものだ。この世界に私たちを引き込むための2時間近くであったのか、と思えるとしたら、その人はきっとこの作品を気に入るだろう。かく言う私もその一人である。
観終わって、別のある作品のことが思い起こされた。それはイ・チャンドン監督の「シークレット・サンシャイン」である。この作品も、人間の罪性を見事に描き、加えて最後にわずかな希望の光をともす作品となっている。
その「希望の形」は、一見はかないもののように見える。しかし、はかなくも「確かな」ものであり、その確からしさ故にはかなく見える希望にさらにいとおしさが増す、というような展開になっていた。消えてしまいそうだが、確かに存在している。存在してはいるが、これ見よがしの感動を伝えるものではない。この微妙でアンバランスなさじ加減が、まさに「種をまく人」のラストシーンと重なる。
聖書の言葉が用いられているため、キリスト教的な映画だと思われがちだが、名もなき市井の人々の日常に潜む罪性と、そこからの解放と新たな一歩を描いた等身大の一作であることを思えば、「はかなくも確かな希望」を伝えるという使命を十分果たしているといえよう。本作は、鑑賞することで、誰とでも自然に語り合いたくなる一作である。
■ 映画「種をまく人」予告編
◇