クリスチャントゥデイは2002年の創立以来、多くの皆様に支えられ、今年17周年を迎えることができました。これを記念し、この度「多様性を恵みとして捉える」を全体テーマにした企画を用意致しました。「女性」「高齢者」「青年」「在日外国人」「災害」のトピックスについて、各分野に関わりのある方々から頂いた寄稿を全5回にわたってお届けします。第3回は「青年」について、日本福音宣教会・松山福音センターの万代栄嗣主任牧師に執筆いただきました。
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牧師・伝道者として
私は、キリスト教の教職としての職務を問われると、当然のように「牧師です」と答えます。しかし同時に、伝道者であることも口にします。教会でのクリスチャンを主な対象としての、いわゆる牧会だけでは、いまだに “宣教地” である日本においては、不十分であることが明白だからです。主キリストの福音を語り、新たに信徒となる人々を生み出さないわけにはいきません。伝道し、本気で宣教活動に取り組まなければ、いわゆる “リバイバル” 的な信仰の高揚を、日本の社会において体験するような事態は起こり得ないからです。
もちろん、だからと言って、牧会や伝道がうまくいっているのかと問われれば、決してそうではありません。むしろ、失敗の方が圧倒的に多く、それも伝道の現場においては、失敗の連続といっても過言ではない状況が続いています。もしそうでなければ、私の関わる教会は、もっと “リバイバル” 的状況を呈しているはずですから。
牧会も伝道も難しい、難儀な国・日本
そして、この牧会も伝道も難しいというのは、決して私だけの偽らざる実感ではなく、かなり多くの牧師先生方、伝道者の方々が共有していただけるものだと思います。現実に、日本の教会の礼拝出席は20~30人という教会が多く、世界の牧師たちからすればその理由がよく分かりません。共産圏のように福音宣教の活動そのものに足かせをはめられているわけでもないのに、クリスチャンは増えないのです。いえ、むしろ、クリスチャン人口が急速に減少し始めている現実の方がかなりリアルです。身につまされます。
私自身も世界に出ていろいろ確かめているのですが、例えば、アジアの何カ所かの神学校に赴き、私なりにまとめた日本流の牧会や教会運営のノウハウを教えてみると、必ず後になってから、「20人くらいの小さな会衆が5年で400人の教会に成長しました」とか、「牧会生活10年で2千人の礼拝出席を実現しました」などと、感謝の言葉を頂くことになります。また、インドなどには毎年コツコツ出掛けて、泥臭く伝道しているのですが、現地の牧師先生方から、私の伝道を通してすでに200万人の未信徒が主キリストの福音を聞き、10万人近くのクリスチャンが誕生している、ということを聞くのです。こういう海外の先生方とお付き合いを継続する中で厄介なのは、しばらくぶりに会うと、必ず「先生の教会は、今、何万人ですか」などと、時に真顔で質問されることです。
次世代への伝道の切迫性
そんな牧会も伝道も難しい私たちの国・日本で、最近、牧師たちが集まると必ず言葉の端に上るのが、“次世代への伝道” です。1990年代にバブル経済が瓦解し、21世紀の到来を、夢の未来の実現だとは誰もが思えなくなっていたころでさえ、その後起こり得る、急激な高齢化や少子化、過疎化といったものが21世紀の日本社会を大いに悩ますものとなり、すさまじい閉塞感や重圧を与えるものとなる、ということを誰も想像できていませんでした。そして、その波を最も激しく受けてしまっているのが、キリスト教界であると言っても過言ではありません。ある教会に招かれて行き、ごくありふれた日本の教会の礼拝で講壇に立たせていただくと、実は今年還暦を迎える私が、集まった会衆の中で最年少・・・というようなケースもまれではなくなってきました。
個々の教団や教会により、その意味するところは年齢的にはかなりずれますが、“次世代” や “青年層” “子どもたち” への伝道は、急を要する責務となってきています。何かしらの有効な手立てを講じなければ、2030年には教会の数は成長どころか半数にまで激減してしまう・・・というのは、どこかの特殊な教団の深刻な事例ではありません。しかし、この “次世代” や “青年層” “子どもたち” への伝道というのは、一筋縄でなせることではありません。伝道の対象となる年齢層を下げたからといって、簡単にそういう層の人々が救われるわけではありません。
刀折れ矢尽きる経験
ミッションスクールといわれる、キリスト教系の大学や中学校、高校に招かれて、いわゆるチャペルの時間などでお話をさせていただく機会を何度も頂いてきました。しかし、そういう時に、若い世代に語り掛けることそのものが大変難しいものであることを、痛感させられることがあります。
ある時、講堂に集められた大学生たちに語り掛けようとして、彼らの聞く姿勢に困惑させられたことがあります。それは彼らが、いかにその一コマを上手に座ったまま寝て過ごそうとしているか、隣の人とおしゃべりをし続けるかにしか興味がないことが明白だったからです。チャプレンの先生は、学生たちの注意を喚起しようとしてくれましたが、その無気力な反応はすでに常態化しており、変わる気配はありませんでした。
私は私で、全力を尽くしました。大学生たちに通じるであろうネタをたくさん仕込んで、あの手この手で語り掛けました。笑いを誘う話や感動的な話題、大げさな身振り手振り、歌まで入れて、与えられた時間内に挑戦を続けました。しかし、繰り出す私の説教者としての業はことごとく弾かれてしまい、最後は文字通り、刀折れ矢尽きた状態になってしまいました。その時、心に浮かんだ思いを忘れることができません。この若者たちが黙って、しっかりと話を聞いてくれるのは、有名俳優や歌手、アイドルや人気のお笑い芸人かスポーツ選手が話し掛ける以外にないのではないか・・・。
ユダヤ人にはユダヤ人のように
初代教会の伝道者パウロが、次のように語っています。
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(コリント一9:19~23)
そして、この滅びゆく魂の救いを求める情熱は、21世紀の今も何ら変わることはありません。
20世紀の神学界で福音の “文脈化” や “土着化” が大きな課題として取り上げられるようになって久しいのですが、今、私たちの国・日本においては、本当に “次世代” や “青年層” “子どもたち” に分かる言葉で語り掛けることができるのか、本当に主キリストの福音は、より若い世代の人々の心と生活に根を下ろすことができるのか、が問われています。
多様性社会と唯一の真理としての福音
ポストモダンの21世紀、興味や関心、価値観の多様性が是とされる社会においては、普遍や真理といったものは、当然、懐疑的な目で見られるわけですから、福音宣教は容易ではありません。まして、社会全体の傾向としてLGBTが受容され、「死ぬ権利」まで論議されるようになった今、主キリスト以外に救いの道はない、という福音の排他性は煙たがられ、遠ざけられるものになっています。また、特にオウム真理教の事件以来、宗教全般に対して疑いの眼差しが向けられ、熱心な信仰の姿勢が権威主義的であるとか、カルトの範疇(はんちゅう)に振り分けられるとか、時代錯誤の産物のように歴史的キリスト教を見る見方も、当然、強まっています。
そんな世の中の流れの中で、“次世代” や “青年層” “子どもたち” との接点を求めるあまり、むやみに擦り寄ろうとするばかりでは、福音の核心を捨てることにもなりかねません。単にキリスト教「的」なものを伝えようとするのではなく、“救い主キリストご自身” を魂を救い得る福音の中心として、私たちは伝えることにこだわり続けなければならないのです。福音を携えて青年たちに向かうための「正解」を模索し続けることを、私たちは決して諦めてはなりません。と同時に、“次世代” や “青年層” と呼ばれる人々の集まりの内部から、福音を自分たちの世代の幸福の鍵として叫ぶ者たちも起こされていかなければならないのです。
あるミッションスクールでの経験
最近のことですが、九州のあるミッションスクールに招かれ、例によってチャペルでお話しをさせていただくことができました。今時の中高生、大学生に果たして説教者としての私の話は通じるのか、主キリストの福音や聖書の教えに関する事柄への積極的な関心を引き出すことができるのか・・・伝道者としての試行錯誤は続いています。
しかしこのチャペルでは、中高生の女の子たちが、目をキラキラ輝かせて私の話に食い付いてきてくれていることが分かりました。私の話が終わったときには、促されてではなく、生徒たちから拍手が自然と沸き起こったのでした。生徒たち自らが拍手をするというのは、当たり前のようで、実はそのチャペルではほとんど経験したことのなかった現象だったようです。チャペル後には、びっしりと共鳴や感動を伝える感想を書き込んだ、担当の先生たちがびっくりするほどたくさんのアンケート用紙が回収されました。
現代も継続する救霊への情熱
確かに、主キリストの福音は、今も聞く人の心に唯一無二の恵みを届ける力を持っています。確かに、聞く人々の心と魂を揺り動かすことができます。私の牧師・伝道者としての挑戦においては、少なくとも、話を聞く場に座ってもらえれば、語り掛ける場に、私の土俵に入って来てもらうことさえできれば、まだまだ大きな力や影響を聞く人の心に見いだすことができるようになる、と確かめています。
そのためのきっかけや手立て、福音を語る場に触れてもらうための工夫や手段の追及は、まだまだ継続中。果てしなく探求・・・といった感じです。しかしこれこそが、パウロたち以来、2千年間にわたって、伝道者たちが共有してきた証し人としてのスピリットなのかもしれません。もしかすると、完璧な答えなど手にすることはできないのかもしれませんが、“次世代” や “青年層” “子どもたち” の救霊のための挑戦は、飽きることなくたゆむことなく続けられていかなければなりません。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(コリント一1:18)
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