ローマ教皇フランシスコは、「主の祈り」の第6の嘆願「我(われ)らをこころみにあわせず」について、イタリア語の従来の訳文を変更することを承認した。「我らを誘惑に導かず」から「我らを誘惑に陥れさせず」という意味の訳文に変更される。2017年には、フランス語でも同種の変更が行われている。
カトリック系メディア「カトリック・ヘラルド」(英語)によると、イタリアのカトリック教会ではこれまで、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語規範版第3版の該当箇所「ne nos indúcas in tentatiónem」を、「non ci indurre in tentazione(我らを誘惑に導かず)」と訳してきた。しかし今回これが「non abbandonarci alla tentazione(我らを誘惑に陥れさせず)」に変更されることが認められた。この他、ミサ曲「グロリア(栄光の賛歌)」の一部の訳文も変更される。
この変更は、イタリア・カトリック司教協議会が昨年11月に承認していた。別のカトリック系メディア「ユーカトリック」(英語)によると、5月22日に開かれた同協議会の総会で、教皇による承認が発表された。訳文の変更は、主教や専門家らが16年間にわたって協議し、「神学的、牧会的かつ文体的観点」から決めた。
2017年にフランス語で訳文の変更が行われた際、教皇は初めて、変更に対する支持を表明した。
「父は誘惑に導くことはせず、父はあなたがすぐに起き上がるよう手助けします。これ(従来の訳文)は良訳ではありません。この訳文は誘惑を誘発する神を描いているからです。誘惑に導くのはサタンです。それがサタンの役割です」
「フランス語訳聖書は、主の祈りを『我らを誘惑に陥れさせず』と修正しました。なぜなら、誘惑に陥るのは自分だからです。主は私を誘惑して、私が(誘惑に)陥るのを眺めておられるわけではありません」
主の祈りは、マタイによる福音書6章9節~13節に記されている。このうち従来の訳が問題とされた箇所は13節の前半で、最も広く普及している英語訳聖書の一つ「新国際訳」(NIV)では、「lead us not into temptation(我らを誘惑に導かず)」と訳されている。
主の祈りの訳文の変更は当時、広範囲な信仰共同体にさまざまな反応を起こした。教皇と翻訳行程への信頼を示す声が多数だったが、変更に懸念を表明する声も上がった。
米トリニティー神学校新約聖書学部のデイビッド・W・パオ学部長は当時、この変更が示すのは「(この箇所の)アラム語の原文に、(誘惑を)許容する意味合いがあった可能性」を示すにすぎない、とクリスチャンポストに語っていた。
「誘惑を許容する部分は、1世紀のユダヤ人に親しまれていた可能性のあるユダヤ教の祈り(ラビ・アバイエの祈り)に見られる文言と似ています。それに加えて主の祈りでは、マタイによる福音書6章13節後半の『悪より救い出したまえ』という祈りが続いています。この箇所は、人を罪に導くものが悪魔であることを明確に指摘しています。
(新しい訳文は)ギリシャ語本文の最善の読み方を示すものでもなければ、この祈りの意味を言い尽くすものでもありません。まず初めに、この『誘惑を許容する』読み方は、マタイによる福音書6章13節前半のギリシャ語本文に明示されていません。
第二に、(主の祈りにある)『誘惑』を(ガラテヤ書6章1節にあるような)『罪に至る誘惑』と解する場合は、神が人をそのような『誘惑』に導くことはないと強調することが重要です(ヤコブ書1章13~14節参照)。しかし、『誘惑』と訳されたギリシャ語の単語は一般的に『試練』を意味します。神は信者を『試練』の中に入れることがあると聖書は教えています(申命記8章2節、16節参照)。
主の祈りの誘惑の箇所は、試練の時が到来することを想定している可能性が高いのです。その場合、この箇所は、主の民が試練の中で罪に陥ることがないよう神の守りを求めるもの(マタイ26章39節、41節)として理解されるべきです」