日米合同コンサート、と言えば聞こえはいいが、実際はクライストチャーチクワイア100名に対して、日本側のクワイアは8名である。とはいえ、皆が震災復興のために心と思いを一つにして、音楽を通して何かを成し遂げようという気概は誰にも負けていなかった。
米国出発の日まで、休日はもちろん、日が近づくにつれて平日の夜などにも集まって自主練が行われた。そうやって必死に頑張る仲間を見て、私たちは一体となっていくのだった。
今回の旅行には、私の息子が同行することになっていた。当時5年生であった彼は、初めての海外に心躍らせていた。しかし出発当日に高熱を出してしまい、泣く泣くキャンセルとなってしまった(翌年、捲土重来を期してナッシュビル入りすることになる)。
そんなハプニングがあったとはいえ、残りのメンバーは無事に伊丹空港に集まることができた。最も心配したのは、生後1歳の赤ちゃんが両親と共に参加するということであった。機内に赤ちゃん用のバスケットを取り付けてもらったり、特別の食事を用意してもらったりして、何とかこの年齢幅の広い一行がトラブルなく渡米できるよう、最大限の配慮を行った。機内では、楽譜を取り出して自主練する者、現地でのショッピングリストを手にして、あれこれと妄想を膨らませる者など、さまざまであった。
途中の経由地、ダラスで小さなトラブルがあった。それは私をめぐってのことだった。入国審査でパスポートをチェックしていた入国管理官が、「こちらの部屋へ来い」と指示してきた。そこへ行くと、こんな質問を矢継ぎ早に浴びせられた。
「定期的に同じ地区(ナッシュビル)へ来ているようだが、その目的は?」
「薬物を持っていないか?」
「あなたのお仕事は?」
私はこの時までに、わずか2年間で6回ナッシュビルと日本を行き来していることになっていた。だから「白い粉」などの運び屋と疑われたということらしい。思わず笑みがこぼれてきた。しかしこんなところで笑うわけにはいかない。私は声をいくぶん大きくしてこう言った。「私は牧師です」
それを聞いた管理局の職員は「オウ!」と高い声を上げ、すぐに私を帰してくれた。米国で「牧師」という職業が、ある一定のリスペクトを得ていることを実体験した一幕であった。
大阪出発から約20時間後(伊丹→成田→ダラス→ナッシュビル)、私たちは無事にナッシュビル国際空港に降り立つことができた。
その後は、教会からの手厚い歓迎を受けたり、日本に来たことのあるメンバーからのおもてなしを受けたりして、握手とハグを繰り返すこととなった。特に初めてナッシュビル入りした日本からのメンバーは、見るもの聞くものすべてが目新しいようで、どこへ行ってもすぐには立ち去れない様子で、写真を撮りまくっていた。
そして2日目の夜から、実際にクワイアとの合同練習が始まった。彼らと共に歌う曲が4曲。そして日本人クワイアで歌う曲が3曲であった。クライストチャーチクワイアにとってもこういった機会は初めてらしく、特に「SUKIYAKI」を日本語で歌う場面では、何度も「この発音で意味が通じるか?」をおのおのが確認していた。CDを何枚も出し、メンバーの半数が音楽業界に何らかの形で関わっている、いわばプロフェッショナル集団であるにもかかわらず、やはり外国語(この場合は日本語)で歌うことには、どうしても不安を抱くのだろう。
このやりとりがメンバーたちの緊張を解きほぐすことになった。日米のクワイアが片言の英語と日本語でやりとりし、一つの目標のために切磋琢磨する姿は、まさに「主にある兄弟姉妹」という表現がぴったりであった。
私はそんな練習風景を後に、教会の入り口でコンサートのために準備している教会員に話し掛けた。「どれくらい準備されてきたのですか?」
すると彼女はにこやかに笑いながら「あなたが帰っていった1月下旬から、すぐに準備に取り掛かったのよ」と答えてくれた。見ると、彼女は当日配布するフライヤーを半分に折る作業をしていた。その数、千枚以上。思わず私もフライヤーを手にとり、折る作業を手伝いながら会話を続けることになった。
コンサート前日、私たちは会場となる礼拝堂でクワイアと共にリハーサルを行った。このひとときのことは、今でも時々思い出すことがある。それは、単なるリハーサルで終わらなかったからである。
楽曲で「Yahweh(ヤハウェ)」を歌っていた時のことである。人々が手を挙げて歌い、右へ左へと体をリズミカルに揺らして歌っていたところ、突然、主任牧師のダン・スコット氏がマイクを取り上げ、聖書の一節を読み上げ始めたのである。そして「ここに今、神の霊が注がれている。私たちは、明日この喜びを集まった方々にお伝えするとともに、日本のために、被災された方に、この恵みを届ける働きをするのだ!」と力強く宣言されたのであった。
そして音楽が終わってからも人々の祈りは途絶えず、それに合わせてピアニストのクリス氏が音色を奏で始め、そのまま15分くらいの祈祷へと入っていったのである。
私もそれを見て、思わず涙ぐんでしまった。2011年3月のあの出来事から2年と少し。主が私たちを用いてなそうとしてくださる出来事が、次第にその全貌をあらわにし始めたのである。
祈りの後、誰からともなく「愛するわが主よ」が歌いだされた。彼らが知っている日本語の曲のうちの一つである。この時、私たちは国籍の違い、言語の違いを越え、「ひとつ」になったことを皆が確信した。気が付くと、リハーサル時間を大幅に越えた「ワーシップ・タイム」となっていた。
さあ、いよいよ明日はコンサート本番である!
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