1999年7月に容体が急変した三浦綾子さんは、旭川リハビリテーション病院に転院後、8月下旬から9月にかけて体調が安定してきました。ところが9月5日朝、容体が悪化し、看護師が駆け付けると心肺停止の状態でした。直ちに当直医、他の看護師たちが駆け付けて応急処置を施し、心臓マッサージによって30分後には心臓が動き出しました。しかし呼吸は戻らず、人工呼吸器が取り付けられ、意識もなかったため、医師はすぐに身内を呼ぶようにと告げました。このような状態になると、数日の命といわれるようですが、何と綾子さんは、この後38日間も命が守られました。
この間、異常低血圧、腎不全の症状、肝機能障害、肺炎にもなりましたが、幾度も奇跡的に回復しました。主治医の丸山純一院長はつくづく感嘆して、光世さんにこう言われたとのことです。「意識不明で、しかも点滴だけの栄養で、こういうことはまずあり得ないことです。綾子さんの上には何が起こるか、人間である医者の私には、まったく予測できません。予測できるのは、神のみです」と。
光世さんは、自著『妻 三浦綾子と生きた四十年』(海竜社)で次のように回顧しています。
綾子は数年前より、「わたしには、まだ死ぬという仕事が残っている」と言っていた。死の近いことを覚悟していたのかも知れない。何も書けなくなったが、死ぬ時もまた人様に少しでも感動をもたらし、希望の灯を掲げたいと思っていたようである。おそらくそうした祈りを、人知れず捧げつづけていたのであろう。こうして1999年10月12日、綾子は77年の生涯を閉じた。多臓器不全という診断であった。どの臓器も、完全に動かぬほどに使い切ったということでもあろうか。・・・
モニターに現はるる搏動(はくどう)刻々に弱まりてああ妻が死にゆく
最後の危篤状態の時は私は綾子の傍について、その最後を見守った。ベッドの横にモニターが備えられ、脈搏の動きが映し出されていた。その搏動が刻々に弱くなっていくのが切なかった。やがて、医師は命の終りを告げた。午後5時39分であった。人間の感覚は、聴覚が最後まで動くと聞いている。私はそれを思い、遺体に向かって幾度も言葉をかけた。
「綾子、いい仕事をしてくれたね」
「綾子、わたしのような者に、よく仕えてくれたね」
「では、また会うまで。さようなら」月並みな言葉だったが、きっと耳に入ったことだろう。
気管閉塞の苦悶(くもん)訴ふる術もなくテーブルにただに面(おも)伏せゐしか
三浦綾子という作家は、生前から自分の死をしっかりと見据えて生きていました。そのことを示す言葉(死生観)を三浦作品から幾つかピックアップしてみます。
どんなに丈夫な人でも、どんなに裕福な人でも、どんなに頭のよい人でも、どんなに幸せな人でも必ず死ぬ。その死は、人間にとって、それこそ、最後の「義(ただ)し努(つとめ)」なのだ。80になり90になって、この世に充分功績を残したからといって「もう何もすることはない」という人はいない。もう一つ「死ぬ」という、栄光ある仕事が待っている。(『北国日記』)
癌(がん)に罹(かか)った者だけが死ぬわけではない。脳溢血(のういっけつ)でも、交通事故でも、自殺でも戦争でも人は死ぬ。もし癌だとしても、癌患者だけが死ぬというような、甘ったれな考えは捨てよう。(『それでも明日は来る』)
毎日毎日、私は今日は命日だと思うと申し上げました。でも、いざ死ぬときどうなるか分かりません。ああ死にたくない、助けてくれって大騒ぎするかもしれませんよ。私は弱虫だから何べんも何べんも死ぬということを考えて、死ぬ練習を考えたりしているのかもしれません。死ぬということを考えることは、本当に生きることだというふうに思います。(『キリスト教・祈りのかたち』)
綾子さんの召された日の午後、私は旭川市永山方面に家内と家庭訪問に出掛けていました。その途中、永山の公園でナナカマドの実が赤く染まっていたのを印象深く覚えています。教会に戻って夕方、「三浦綾子死去」という速報を耳にし、ご遺体が自宅に戻った後、三浦宅に弔問に出掛けました。三浦綾子記念文学館の高野斗志美館長や、三浦綾子記念文化財団の後藤憲太郎副理事長、また五十嵐広三元官房長官ら、綾子さんと関わりのある方々が既に集っておられ、騒然としていました。私は、光世さんに短く哀悼の気持ちを伝え、ご遺体の前で短く祈りすぐに失礼しました。
病弱の身で緊急入院して以来、関係者皆がどこかで綾子さんの死を覚悟していたとはいえ、実際に死の現実を前にして誰もが深い悲しみに包まれました。綾子さんの死は、地元旭川はもちろんのこと、全道、全国に大きな衝撃を与えました。特に北海道では、郷土が生んだこの作家の死を惜しんで、新聞は号外や特集記事を出し、テレビも特番などで大々的に取り上げました。
高野館長は「私たちの時代は、人間への限りない優しさによって魂の深い奥行きを生み出すことのできた、このようにも純粋な作家を再び持つことはあるまい、とさえ思う」と哀悼の意を表しました。
北海道新聞(99年10月13日付)には、札幌在住の道産子作家で、三浦夫妻と親交のあった小檜山博氏の寄稿文「やさしさを教わった」が掲載されました。この寄稿文は、多くの道民の率直な気持ちを良く代弁していますので引用させていただきます。
三浦綾子さんが亡くなった。晩秋の早い陽が山に沈んだ時、書斎でその報(しら)せを聞き、三浦綾子が死んだ、とつぶやくと、それが体の中で反響し、何かとてつもなく暗く深い穴に閉じ込められたような気分に陥った。(中略)7年ほど前、ぼくが旭川で講演した折り、三浦ご夫妻が聞きにこられて慌てた。ぼくがいくら必死になって、帰ってください、と頼んでも二人は笑って席を立たなかった。講演の間じゅう、ぼくは脂汗を流し続けた。
講演のあとぼくの著書のサイン会があり、途中、3種類の本を差し出されて顔を上げると三浦ご夫妻だった。まだ帰らないでいたのだ。ぼくは立つと『買わないでください、あとで送ります』と言った。だが綾子さんは『ほら早くしないと後ろに並んでますよ』と笑うだけだった。ぼくはしかたなく署名した。だが、やがてぼくは気づいた。綾子さんが買ってくれた3冊ともちゃんとサインして贈呈してあったのだ。
体調が悪いのにぼくなどの講演にきてくれたのも、聴衆が少なくては気の毒との気づかいからで、すでに持っている本をまた買ってくれたのも、ぼくの本を買う人が少なくては可哀想だとの心くばりに違いないのだった。あのときぼくは、人間のやさしさとは何かを教わった気がする。(中略)この先、三浦綾子さんのいない北海道は、いかにも寂しい。しかし宇宙に帰って行った彼女の残してくれた、やさしさと思いやりという大いなる遺産をかかえて、ぼくらは明日に向かおうと思う。ありがとう、三浦綾子さん。
綾子さんが残してくれた優しさと思いやりについて考えてみました。特に綾子さんは、牧師という働きを非常に大切に考え、私のような未熟な牧師に対しても実に丁寧に接してくださいました。働きを覚えて祈ってくださるのはもちろんこと、赴任して間もなく、私たち家族を市内のすき焼き店に招待してくださったり、毎年クリスマスの時期に特別なクリスマスプレゼントを届けてくださったりしました。
綾子さんは私に対してだけではなく、市内外のどの牧師たちに対しても、いつも励ましとねぎらいの言葉を掛け、具体的な愛を示し続けられました。伝道や牧会の最前線で苦闘している牧師たちにとって、そのような愛の心遣いに、どれだけ励まされ、慰められたか分かりません。
北海道は旭川で生まれ育ち、作家活動を終生続けた綾子さんは、その旭川で77歳の生涯を終えました。しかし、この死から新たなドラマが展開していくことを、この時はまだ誰も想像できませんでした。(続く)
◇