三浦夫妻の旧宅解体式を機に、「旭川に三浦綾子記念文学館を」をという機運が一気に沸き起こってきました。その頃、パーキンソン病の症状が悪化する綾子さんを、夫の光世さんは忍耐深く日々介護されていました。当初、綾子さんは文学館をつくることを固辞されていましたが、病状が悪化する中で、親友の木内綾さんに「作品を残す場所をつくってほしい」ともらしたといいます。そのことも大きなきっかけとなり、1995年12月6日に「三浦綾子記念文学館設立実行委員会」が誕生し、全国から3300人が登録、委員会の会合には800人が参加しました。
一口2千円から募金を呼び掛ける市民運動の働きにより、3年後には全国1万5千人を超える人々から3億円以上の寄付が集まりました。97年には、財団法人三浦綾子記念文化財団が設立され、理事長に光世さんが就任。建設場所には、代表作『氷点』の舞台・見本林に、という声が多く上がりました。見本林は国有林ですが、その一角にあった林野弘済会(現・日本森林林業振興会)の売店跡地を借りることができるようになり、ついに文学館の建設工事が始まりました(三浦綾子記念文学館開館20周年記念誌『こだわり、てづくり。三浦綾子記念文学館、市民と20年』参照)。
かくして98年6月13日、快晴の日、『氷点』の舞台となった旭川市神楽(かぐら)の外国樹種見本林内に三浦綾子記念文学館がオープンしました。開館セレモニーには、三浦夫妻をはじめ関係者約400人が出席し、開館を喜び合いました。このセレモニーに、綾子さんは光世さんと秘書の八柳洋子さんに支えられて出席されました。文学館オープンを前にして、北海道新聞の取材に対して次のように感想を語っています。
自分の名前がついた文学館が作られることに、当初は、はばかる気持ちもありましたが、今は感謝以外に言葉もありません。ともあれ訪れた人が、深い懐かしさを抱いてくれる文学館であってほしいと願っています。ボランティアと来館者が『また来てねー』『また来るよー』と、気軽に声を掛け合えるような、そんな人間同士の触れ合いを大切にする場所となってくれることを・・・。(北海道新聞〔98年6月12日付〕より)
文学館は、「ひかりと愛といのち」をメインテーマとして「『氷点』の世界」など5つの展示室が設けられています。一般市民や有志からの寄付などを主体に、総工費約3億円を集め建設された、全国でも珍しい「民立民営」の文学館です。初代館長には、文芸評論家で旭川大学教授であった高野斗志美氏が就任されました。高野氏は、この当時はまだキリスト者ではありませんでしたが、三浦文学について非常に深い洞察を持ち、共鳴を覚えている文芸評論家でした。三浦夫妻とも親しい交流を持ち続けておられました。文学館の具体的構想についても、想像を超えるほど尽力された方でした。その高野氏は、三浦文学について次のように指摘しています。
この作家ほど名前がひろく知られ親しまれたひとはそういない。出版部数は4千万部におよぶのである。だが、文学界はこれまで、いささか三浦綾子を等閑視して来たというきらいがある。このひとの書くものを文学の名では呼ぶことにためらうというような空気がどことなくあったと思うのである。もちろん、他方ではいやおうなく、きわめて多くの読者を三浦(文学)が獲得している事実をよく承知した上でのことではあろう。このことは、逆にいえば、三浦文学が文学界では特別なあつかいを受けていたということである。つまり、三浦綾子の作品世界は、この意味で、一般に考えられているような文学の通念からはみ出していて、それにつつみきれない異質な部分を多く持っているということなのである。
三浦綾子はプロテスタントであり、キリスト者のひとりとして文学をとおして伝道の仕事にあたると公言していた作家である。この作家にとっては信仰生活が第一義であり、それを抜きにした作家生活というものは考えられなかったのである。このとき、三浦綾子はいち早く、宗教と文学の関係という構図から脱出している。いいかえれば、この構図のなかで争われる「文学とは何か」という計略から解放されているのである。これは、文学の否定ではない。拒否でもない。むしろ、このひとにとっては、積極的な文学の肯定なのである。伝道の文学というかぎり、この作家は、文学の理念を明快に示し、そのことで「文学とは何か」に答えている。なぜなら、三浦綾子にとって文学は、神によって用いられることの証しにほかならなかったからである。
三浦文学は、キリスト教文学であるが、多数の非キリスト者にひろく読まれている。旭川から発信されるこの作家のメッセージは、信仰の有無をこえて愛読されているのである。(高野斗志美著『評伝三浦綾子―ある魂の軌跡』〔旭川叢書第27巻〕3~7ページより抜粋)
文学館の館長を、98年の開館から2002年まで約5年間務めた高野氏は後日、臨終の床で、日本基督教団豊岡教会(当時)の久世そらち牧師から、光世さんと、三浦綾子記念文化財団副理事長の後藤憲太郎氏の立会いの下で病床洗礼を受け、02年7月9日に召されました。
私はその知らせを聞いて、三浦文学を深く理解し共鳴していた高野氏の、当然で自然な信仰告白と病床洗礼であったと受け止めました。
文学館は18年に開館20周年を迎えました。開館以来の入館者数は約54万人(17年末まで)に上ります。20周年を記念して文学館の隣には、三浦夫妻の書斎を復元した分館もオープンしました。
文学館2階にある図書室のテーブルには「想い出ノート」が置かれており、入館者が思い思いに感想を記しています。そのノートを読むと、入館された方々の熱い思いが伝わってきます。
「神戸から来ました。中学生で『氷点』を読んで以来、どれだけのなぐさめと励ましを受けてきたか分かりません。朝一番に来館でき、静かに見ることができ本当に来て良かったと思います。ありがとうございました。子どもたちを連れてくることができて何よりの感謝です。また、あらためて読み返し、味わっていきたいです」
「心がつらくなったときに思い出すのはいつもこの旭川の文学館です。今日もやさしい空気に包まれ、だきしめられている感じがします。綾子先生の『大丈夫』という声が聞こえてきます。自分の中で気持ちを浄化していくのに時間がかかります。そんな時、思い出す言葉は『神様は負えないほどの荷物は決して負わせてはいらっしゃらない』。綾子先生の言葉です。ひと時忘れていました。でも思い出したときに不思議と平安な心になったのです。『大丈夫。きっと大丈夫』と。冬の雪の中の見本林が大好きです。また来ます。千葉県」
その他多数の方々の感想がノートに記されており、綾子さんが召されて19年を経ても、三浦文学は今も数えきれない人々に生きる勇気と励ましを与え続けています。まさに「ひかりと愛といのち」を、生きることに疲れ苦闘している現代人に提供しています。(続く)
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