三浦夫妻から譲り受けた旧宅をいつまでも空き家としておくのは、防災などの面から心配があると指摘され、教会として旧宅をどうすべきか、判断に迫られました。一部からは、三浦文学誕生の貴重な住宅なので、「三浦綾子文学館」にしてはという声も上がっていました。
そのため私が直接、三浦綾子さんに相談したところ、「私の名前が付く文学館などつくらないでください。そんなことをしたら、先生と絶交よ」と、いたずらっぽく微笑まれて固辞されました。そのことを旭川めぐみキリスト教会の役員会に伝え協議し、三浦夫妻にも承認いただいた上で「旧宅を解体し、その土地を教会の駐車場として活用しよう」という結論になりました。
ただ貴重な住宅なので、1993年11月7日に旧宅解体式を行うことを公に発表し、新聞などでこのことが報道されました。私個人は、役員会で解体を決定したものの、せっかく寄贈してくださった建物を解体することは、三浦夫妻に申し訳なく、多少重い気持ちで日曜日午後の解体式に臨みました。
その解体式には三浦夫妻も参加され、各部屋を懐かしそうに見て回られ、その表情はとても悲しそうでした。解体式の席上で綾子さんは、旧宅の思い出を時折、声を詰まらせて語られました。解体式には、報道関係者や三浦文学ファンも何人か参加していました。
解体式を終えてしばらくしてから、旭川大学の山内亮史教授(後に学長)をはじめとした有志から、旧宅を解体するのではなく、保存してほしいという突然の申し出があり驚きました。有志の方々は、保存できるように一旦解体し、倉庫に保管し機会を見つけて復元したいという希望でした。14日に山内教授と教会との話し合いに入り、①家の骨格全体を保存する、②保存場所は山内教授らが確保する、の2点について同意しました。
この一連の事柄も地元紙などで大きく報道され、市民の関心事となりました。当時の「あさひかわ新聞」(1993年11月23日号)に次のような記事が掲載されました。
保存運動の高まりについて三浦さんは「旧宅は教会に寄贈したものなので、自分からどうして欲しいということは一切ない。(元旭川大学長で文芸評論家の)高野教授と教会との協議で決めてもらいたい」と話し、高野氏に全幅の信頼を置いているようだ。一方、教会側は「今年6月に解体の方針が決まり、新聞にも報道された。その際、市内の学者から『保存しては』との談話が掲載されたので、もしかすると保存運動が起こるのではと予想していた。しかし、以後一切保存の動きがなかったので、今回の保存運動はある意味で意外な面も感じる」(込堂牧師)と戸惑いを隠さない。ただ、今回の解体の延期を受け入れた以上、「保存の動きが市民運動となるのであれば、その考えを尊重したい」(同)と当面は静観の構えのようだ。
この保存運動を契機に、市民の間から「三浦綾子さんの文学館が旭川に必要ではないか」という声が上がり始めました。一方、三浦夫妻は、自分たちが教会に寄贈した旧宅のことで牧師や教会が、保存運動の騒動に巻き込まれたことを大変気にされていました。
翌年1994年3月10日、小説『銃口』が小学館から発行され、綾子さんから真新しい『銃口』上下巻を頂きました。その上巻の表紙裏に綾子さんの震える文字で「謹呈 その節は何かとご迷惑をおかけ致しました 1994,3,5 三浦綾子 込堂一博先生 初枝様」と記されてありました。しかも『銃口』の主人公・竜太の上官に「近堂」という名前の一等兵が登場します。『銃口』には、近堂一等兵について、次のように書かれています。
近堂一等兵は内務班(宿舎)で竜太に戦友として与えられた古年兵であった。軍隊には、初めて軍隊生活をする初年兵一人々々に対して、直接細やかにその指導する古年兵がついていた。(中略)竜太は入隊の日に近堂に会ったのだが、その時の印象が忘れられなかった。近堂は雪焼けした丸顔一杯に微笑を湛(たた)えて竜太を迎えた。それはあたかも久しぶりに肉親にでも出会ったような、あたたかい笑顔だった。(『銃口』〔下〕134〜135ページ)
綾子さんはよく小説に、自分とゆかりのある人の実名を少し変えて取り入れることがあります。この「近堂」という名前に、私も気になって後日、三浦綾子読書会顧問(現在は代表)の森下辰衛(たつえい)氏にお聞きしたことがありました。森下氏は「綾子さんは、明らかに込堂牧師の名前から近堂という名前を付けていますね。間違いありません」とのコメントをいただきました。この近堂一等兵は素晴らしい人物で、最後にはソ連の戦闘機に銃撃され、部下をかばって身代わりの戦死を遂げます。私は、明らかに『銃口』の近堂一等兵のような立派な人間ではありません。ただ綾子さんは、旧宅騒動のことで申し訳ない気持ちの表れとして「近堂」という名前を付けられたのかもしれません(このことについて、綾子さんには生前直接お聞きしませんでした)。
この旧宅解体がきっかけで、三浦綾子文学館設立の動きが一気に高まり始めました。一方、旧宅の復元については保存運動の方々の尽力で、小説『塩狩峠』の舞台である和寒(わっさむ)町との交渉が進められていました。旧宅解体決断から、綾子さんに関わる事態は大きく動き始めました。(続く)
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