「ちいろば(小さなロバの子)先生」の愛称で知られる榎本保郎牧師(1925〜77)と、榎本牧師を小説『ちいろば先生物語』で紹介した作家、三浦綾子(1922〜99)。親友であり「信友」であった2人のキリスト者にとって「一番大切だったもの」とは何だったのか。2人の信仰の歩みをテーマにした森下辰衛(たつえい)三浦綾子読書会代表による講演会が14日、日本ナザレン教団青葉台教会(横浜市)であった。
三浦綾子は、榎本牧師が最晩年まで巻頭言を書き続けた「アシュラム」誌に、エッセー「壺」を連載した。その巻頭言とエッセーを、榎本牧師の息子でアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵氏から譲り受けた森下氏は、数カ月かけて熟読し、榎本牧師召天40周年の昨年、日本基督教団神戸聖愛教会(神戸市)で「一番大切だったもの〜榎本保郎と三浦綾子、2人のアホウが照らす道」と題して講演した。今回の講演は「関西だけでなく関東の方々にも聞いてほしかった」(森下氏)と、昨年の内容を再演したものだ。
三浦綾子記念文学館(北海道旭川市)の特別研究員である森下氏は、専門家として三浦綾子には詳しいが、榎本牧師とは直接会ったことはない。しかし、神の召しを感じ、福岡女学院大学の助教授を辞して、三浦作品の研究のために家族で旭川へ移住することを決めた人生の転機の時、その背中を押してくれたのが榎本牧師だった。2006年冬、先に家族を旭川に送り、引っ越しの用意をするため一人で福岡に戻った森下氏は、クリスマスの日も午前の礼拝を済ませた後はひたすら荷造りをしていた。その時、荷造りをしながら何度も聞いたのが、榎本牧師が日本基督教団今治教会で伝えた告別説教のテープだった。
榎本牧師は召される2年前、アシュラム運動に専念するため、12年間牧会した今治教会を辞任する。「榎本保郎はその時、どこにいくのか分からない中で今治教会に辞表を提出したのです」。森下氏は、福岡女学院大学に残れば教授になれる立場にあったが、それを捨て旭川へ行く自身と重ねながら説教を聞いたという。「あの榎本保郎の明るい、力強い声が本当に励ましになった」と振り返る。
講演題で、榎本牧師と三浦綾子を「アホウ」と表現したことについて、「三浦文学では『アホウ』は賛辞」と森下氏は言う。実話に基づいた三浦綾子の小説『塩狩峠』で、主人公の永野信夫は「私はキリストのアホウになりたいんです」と言った。また路上で大声を上げて説教し、永野を入信に導いた伝道師の伊木一馬の名前は「イ(伊)エス・キ(木)リスト、『一』番、『馬』鹿」をひねったものではないかとも。「にもかかわらず信じて、にもかかわらず愛して、にもかかわらず従うアホウ。それを神様が探していらっしゃる」と語った。
榎本牧師の巻頭言を読む中で、三浦綾子の研究家である森下氏にとっても衝撃的な発見があった。病弱だった三浦綾子は、その作品を夫・光世氏の助けによって口述筆記で書いたが、同誌のコラムだけは、自筆でしかも原稿料なしで書いていたのだ。「三浦綾子についての常識が吹っ飛んでしまった」。三浦綾子がいかに「アシュラム」誌で執筆することを大切にしていたかが分かる。
また、三浦綾子の作品が多くの人々に読まれる理由を尋ねられた榎本牧師は、次のように答えている。
私はすぐに「それは(三浦綾子)先生の弱さだ、と思う」と答えた。私のような者にでも、わざわざ長距離電話で「祈ってください」と電話をかけてこられることがたびたびある。このことは先生がいかに自分の弱さ、貧しさを知って文筆活動をしておられるかを示すものだと思う。自分の知識や才能を誇って書かれた作品には、陶酔はあっても感動がない。三浦文学が今日、人々を魅了しているゆえんはここにあり、それが読む者の魂に迫ってくるのではなかろうか。(1974年10月号)
森下氏によると、『氷点』の原稿が書かれたノートには、「主よ、書かせたまえ」と三浦綾子が書いた大きな字が残っているという。「(小説を)ただ書けないということではなく、『私には御心にかなうものを書けないのです』。そういう叫びがある。だから(三浦綾子も神に)しがみつくしかなかった」。
榎本牧師の巻頭言について、森下氏は「単なる聖書の解説ではなく、信仰のお勧めでもなく、それはちいろば先生自身の命懸けの証し」と言う。「もう時がない」と題した1975年6月号の巻頭言では、国立ハンセン病施設「長島療養所」(岡山県)に長島聖書学舎を創設し、ハンセン病患者救済に尽力した原田季夫(すえお)氏(1908〜67)について触れている。原田氏は高校時代にハンセン病患者のために生涯をささげる決心をしたが、諸事情により東京で伝道し神学校で教鞭を執っていた。しかし50歳になったとき、これ以上延ばすことはできないと決心し、一切を捨てて長島療養所へ赴く。原田氏の生涯を追いながら、榎本牧師は次のように書いている。
先日、私は早天祈祷会でヨハネの黙示録の10章を学んでいる時、「もう時がない」ということばに強く迫られた。イエス様の私へのことばとしてこのことばが迫ってきた時、私はただひれ伏し、「はい」と言ってそれに従うよりほかになかった。(1975年6月号)
この原稿を執筆したのは前月の1975年5月。榎本牧師はこの月に、まさに今治教会に辞表を提出したのだった。
絶筆となった1977年7月号は7月25日付だった。この日、肝炎が悪化しロサンゼルスの病院に入院した榎本牧師は手術を受けるが、2日後に亡くなる。「新しく生まれなければ」と題したその巻頭言は、その1カ月ほど前に書かれたものだが、次のようにつづられている。
主イエスでさえ、死ななければ栄光を受けることはできなかったのである。あなたは聖書に通じているか。だとしたら、それはよいことである。奉仕に熱心であるか。だとしたら、人々によき証しとなるであろう。忠実な信仰生活を送っているか、それは大事なことである。しかしもし、あなたが死ななければ、それらはすべて人間の世界から一歩も出ることはない。決定的なことは、あなたは死んでいるかどうかである。もし死ななければ、多くの実を結ぶことができない。さて、いったい死ぬとはどういうことなのだろうか。死ぬとは文句を言わなくなることであり、明日のことを思い煩わなくなることである。(1977年7月号)
榎本牧師の巻頭言は、「アシュラム」誌の最初のページにびっしり書かれており、余白があっても2、3行だという。しかし、この最後の巻頭言だけは6行も余白があった。榎本牧師はこの時すでに死を予感していたのではないか。森下氏は、この余白が心に大きく突き刺さったという。「友よ、あなたはここに何を書くのか。応答として、この余白に何を書くのか」。まるで榎本牧師が問い掛けてくるようだと話す。
「キリストのアホウ」として生涯を歩んだ榎本牧師と三浦綾子にとって「一番大切だったもの」とは何だったのか。渡米をやめるよう説得する和子夫人に、榎本牧師は次のように言う。
なあ、和子。ぼくも無理や思うんや。けどな、人間、走るべき道のりいうものが、定まっとるんやないやろか。ぼくの命は、大事にしたところで、あとどれほども残ってはおらん。それをぼくはよう知っとんのや。主がお入り用いう言葉を聞き流して、何カ月か命を長らえるより、キリストをこの背にお乗せして、とことこ歩いているうちに死ぬほうが、ぼくにはふさわしい。本望や。ぼくはなあ、何としても神の言葉を聞き流すことがでけへんのや。(三浦綾子著『ちいろば先生物語』〔下〕)
「ぼくはなあ、何としても神の言葉を聞き流すことがでけへんのや」という言葉に、森下氏は2人が一番大切にしていたものを見る。
「ここに彼の本当の弱さと愚かさがある。聞き流すことのできない弱さ、聞き流すことのできない愚かさが彼の真ん中にあった。それは神の愛に圧倒されたから。神の言葉に圧倒された魂の言葉がここにある。砕かれながら、抱きしめられた者の言葉がここにある」
森下氏は最後にこう述べ、講演を終えた。
この日の参加者は40人ほどだったが、大和カルバリーチャペルの大川従道牧師の姿もあった。30代の時から榎本牧師と親交があった大川牧師は、札幌で行われた講演会で、体調が悪化し説教できなくなった榎本牧師の代わりに急きょメッセージを取り次いだこともあったという。その講演会には、旭川から三浦綾子も来ており、講演後に楽屋に来て励ましてもらった思い出などを語った。また、榎本牧師が詩集の出版を後押しした「瞬きの詩人」で知られる水野源三(1937〜84)とも交流があり、「3人の方々に触れた一人のキリスト者として、今日は非常に大きな感動を覚えた」と語った。
榎本牧師の巻頭言は昨年、召天40周年を記念して単行本化され、『聴くこと祈ること』(いのちのことば社)として出版された。この日も、他の関連書籍と共に会場で販売された。