三浦綾子のデビュー作にして代表作である小説『氷点』が、朝日新聞社の懸賞小説に入選し、世に出てから今年で50年を迎える。三浦作品を共に読み交わりを深める活動を13年にわたって行っている三浦綾子読書会は11日、『氷点』入選50周年を記念し、 東京都内で記念集会を開催した。集会では、『氷点』の解説と朗読、また『氷点』の中で登場するショパンの幻想即興曲の演奏、三浦綾子と親交があった2人による講演などが行われた。
■「出ておいでよ」
記念集会の初めのプログラムとして行われた『氷点』の解説では、三浦綾子読書会代表で三浦綾子記念文学館特別研究員である森下辰衛氏が、「出ておいでよ」という三浦綾子の言葉を用いて『氷点』を解説した。
三浦(旧姓:堀田)には、『氷点』の主人公である陽子と同じ名前の妹がいたが、三浦綾子が13歳の時、6歳で亡くなっている。姉の綾子に「お姉ちゃん、陽子、死ぬの?」と聞きながら亡くなっていった陽子。陽子の死後、三浦綾子は近所の暗がりに行って、「幽霊でもいいから会いたい。陽子ちゃん、幽霊でも言いから、出ておいでよ」と言うほど、妹の死を悲しんだという。
「陽子さんの名前を綾子さんが選んで(『氷点』の)主人公の名前にしたということに本当に深い意味がある」と森下氏。幼くして亡くなった妹。姉としてなにもしてあげられなかった三浦綾子。「(三浦綾子の人生において陽子の死は)一番初めにあった、本当に悲しい体験だったと思う」「(陽子を亡くしたことが)氷点の最初にある、またそれだけではなく、三浦文学の一番の動機になるのではないか」と森下氏は語った。
三浦綾子がこの深い悲しみに遭ったときに発した言葉「出ておいでよ」。これは、三浦綾子のその後の人生の様々な場面で登場する。
三浦綾子読書会を様々な場所で開いて行く中で、森下氏は、小学生1年の時、三浦綾子が担任教師だったという男性に出会った。この男性は、当時、不登校になった時期があったという。その時、三浦綾子はその男性の家に大福餅をたくさん持って訪問した。三浦綾子は大福餅を置いて、「坊ちゃん、出ておいでよ。坊ちゃん、学校に出ておいでよ」と、たった一人学校に行けず、家でうずくまっていた男の子に優しい言葉をかけたという。森下氏は「私はこれを聞いた時、『出ておいでよ』がここにもと思った」と言う。
また、三浦綾子は自宅で度々家庭集会を開いたが、近所の人々には「一人で家にいないで、家庭集会に出ておいでよ」と言って誘ったという。ここにも「出ておいでよ」という言葉が出てくる。
1999年10月、三浦綾子が亡くなった際、葬儀では三浦綾子が生前最も好きであった聖書箇所として、ヨハネによる福音書11書35節「イエスは涙を流された」が読まれた。この箇所は、マルタとマリアが、弟ラザロが病気で死にそうだとして、イエスを呼んだが、イエスが来る前にラザロが亡くなってしまった場面の一節だ。イエスは、死んですでに墓に葬られたラザロの墓石を動かせと命じ、葬られたラザロに向かって「ラザロ、出て来なさい」と叫んだ。ここでも「出ておいでよ(出て来なさい)」という言葉が登場する。
三浦綾子の中に「出て来なさい、出ておいでよ、という愛があったと思う」と森下氏。「それで、聖書を読んで、ヨハネの福音書を読んだ時、『出て来なさい』と言っているイエス様がいると知った時、綾子さんはイエス様が大好きになったと思います」「命の方に『出ておいで』と言って下さって、本当に生き返らせて下さる方なんだとわかった時、この方(イエス)をこれからも一生お伝えしたいと思う人になったのではないかと思う」
『氷点』の最後の場面では、陽子は雪が一面に積もる見本林へ行き、睡眠薬を飲んで命を絶とうとする。森下氏は、『氷点』には直接は書かれてはいないが、「主よ、来て下さい。ゆるしが欲しいです」という陽子の心の叫びを三浦綾子が描いたのではないかと言う。その後、三浦綾子は、睡眠薬を飲んで昏睡状態になった陽子を、イエスが十字架に掛けられ墓に葬られたのと同じく、三日三晩眠らせる。そして、(陽子を可愛がっていた、陽子の母・夏枝の友人である)辰子に「出ておいで。全く新しい人生があるのだから」と言わせている。続編『続・氷点』では、陽子は不義の子として生まれたという、より辛い現実に向かうことになる。しかし、陽子は最後には自分の罪を悟り、オホーツクの海に映った燃えるような夕日を見てキリストの十字架を知り、自分を生み愛した実母(恵子)に「ごめんなさい」と謝る。
森下氏は、三浦綾子が、幼くして亡くなった妹・陽子と重ね合わせた陽子(『氷点』の主人公)を、「そこ(キリストの十字架を知るところ)まで連れて行った」「綾子さんのお姉さんとしての愛だった」と語り、この夭折した妹に向かった三浦綾子の愛は、『氷点』を読む全ての人への愛だと述べた。
■ 人を励ます人だった
森下氏の『氷点』解説後には、三浦綾子読書会の朗読部門講師で、NTTの時報などで音声を担当しているナレーターの中村啓子氏が、『氷点』から「階段」の部分を朗読。続いて、『三浦綾子100の遺言』の著者である込堂(こみどう)一博氏(前旭川めぐみキリスト教会牧師)が講演した。
込堂氏は、子ども時代に死に対する恐怖があったことや、人生に絶望し自殺願望があったこと、そのような絶望の中から救われたことなど、三浦綾子と自身との共通点について紹介。その上で、旭川の地で20年以上にわたって牧会する中で出会った三浦綾子との交流について語った。
1991年、故郷の千歳市から旭川市へ赴任した込堂氏。三浦夫妻に挨拶するため、夫妻で三浦宅を訪れたが、当時、三浦綾子はすでに小説家として有名で、込堂氏は非常に緊張していたという。その際、三浦綾子が語った4つの言葉を今でも忘れないと紹介した。
それは、「まぁ、素敵なご夫妻ね」「私も自然と人間が大好きです」「著名ということはくだらないことですよ。そんなことで恐れないで下さい」「お二人(込堂夫妻)は、いい子、いい子と、(神様から)可愛がられているのですよ」という言葉だった。
それまで「素敵な夫妻」だとは一度も言われたことがなかったという込堂氏。三浦綾子は「どんな人に対しても褒め言葉を惜しまない人」だと言い、「何か皮肉を言われているような気もした」が、「素敵な夫婦になって下さい」という激励の言葉だったと語った。
また、三浦綾子から「何が好きですか?」と問われ、込堂氏は「自然が好きです」と答えた。これに三浦綾子は「私も自然と人間が大好きです」と語った。込堂氏の緊張をほぐそうと「何と言っても私は人を食っていますからね」などと冗談も続けた。この時、込堂氏は「負けた」と思ったという。「私は『人間が大好きだ』とは言えない」「『人間が大好きです』というのが、三浦文学の大きな特色」だと語った。
一方、緊張していた込堂氏は率直に「先生方(三浦夫婦)はあまりにも著名なので、緊張しています」と話したという。すると、三浦綾子は一瞬厳しい顔に変わり、「著名ということはくだらないことですよ。そんなことで恐れないでください」と一言。また、「お二人は、いい子、いい子と、可愛がられているのですよ」と語ったという。
「三浦綾子さんと出会った人々は誰でも励まされます」と込堂氏。「三浦綾子さんは励ます人でした。今の時代はそれと反対です。励ますより、批判する。足を引っ張って、はたく。三浦綾子さんはどこまでも励ます人でありました」と、三浦綾子の人を励ます、愛に溢れた人柄を紹介した。
■ 御心でなければ入選させないで下さい
込堂氏の講演後、ユーオーディア・アカデミー講師である菅野万利子氏が、特別演奏として、『氷点』中で登場するショパンの幻想即興曲を演奏。その後、三浦綾子の初代秘書を務めた『三浦家の居間で』の著者、宮嶋裕子氏が講演した。
「秘書であった私にしかわからないことを語りたい」と宮嶋氏。三浦綾子の作家人生で一番中心になった聖書の言葉を考えた時、「私たちの内に願いを起こさせ、それを完成させてくださるのは神である」(フィリピ信徒への手紙2章13節)が、一番初めに思い浮かんだと言う。
三浦綾子は1963年、1月1日に朝日新聞社が懸賞小説の公募を発表してからすぐ、1月9日から『氷点』の執筆を始め、ほぼ丸1年かけて同年12月31日に『氷点』を完成させている。三浦綾子は当時、雑貨屋を営んでおり、執筆活動は雑貨屋の仕事を全て終えてから始まる。冬はインクが凍るような寒さの中、布団にすっぽりと包まり、深夜1時、2時まで書き続けたという。この際、三浦綾子は「神様、あなたの愛を伝える作品を書かせてください。この作品が御心にかなわないなら、入選させないでください」と祈り続けて書いたと、宮嶋氏は言う。
「(私たちの祈りは)下さい。下さい。下さい。ほとんど要求。神様を召使いにするかのように、お願いばかりしている」と宮嶋氏。御心でなければ入選させないで下さいと祈り、入選後は「入選したからには神様が責任を持って下さる」という、三浦綾子の単純な信仰の姿勢を紹介した。
この日の集会には、三浦綾子読書会の会員など90人余りが参加。司会は、読書会の設立者で前代表、現在は顧問として活動している長谷川与志充氏(東京JCF牧師)が行った。参加者は「綾子さんが一緒にいるように感じた」「綾子さんは作品を通して今も生きて働いているようですね」などと語り合っていた。