1999年10月12日に77歳で天に召された三浦綾子をしのび、「三浦綾子召天15周年記念集会」が18日、御茶の水キリストの教会(東京都千代田区)で開催された。主催は三浦綾子読書会。綾子氏の生涯を簡潔にまとめた映像の上映や、親交の深かった人物による対談、小説『銃口』の朗読と講演が行われた。集った人々は、あらためて綾子氏に思いをはせ、彼女を通してなされた神の偉大な御業を思い起こす時を過ごした。
第1部の冒頭で上映された映像には、綾子氏が夫の光世氏と共に口述筆記で小説を書いている様子も収められていた。これは、綾子氏の絶大な信頼を得ていたプロデューサーが、執筆現場に立ち入ることを許され、撮影することができた唯一の貴重な映像だという。
「映像を見て、様々な記憶が呼び起こされました」と、三浦綾子初代秘書の宮嶋裕子氏は、綾子氏と個人的な交わりのあったプロデューサー・森重ツル子氏と対談した。森重氏は、綾子氏との出会いから話を始めた。初対面の綾子氏の自宅で長居をしては悪いと腰を上げたが、綾子氏に「私の作ったおいしいソフトクリームがあるのに、食べないで帰るのね」と声を掛けられ、「頂きます」と言うしかなかったと、目を細めて昨日のことのように話した。
宮嶋氏によれば、綾子氏は気を使わせずに人を引き留めるのが上手だったという。森重氏の話を受けて、旅人をねんごろにもてなす言葉使いをする人でした、と懐かしそうにコメントした。仕事にまつわるエピソードだけでなく、非常にプライベートなエピソードにまで話題が及んだが、「ここだけの話ですよ」と綾子氏との思い出を、時には笑いが止まらなくなるほど楽しそうに話す2人の対談に参加者は聞き入った。
対談の中には、白洋舎創業者五十嵐健治氏の五男・五十嵐有爾氏や、元教文館社長の中村義治氏など非常に多くの人物が登場した。綾子氏の書き残した著書の中にも実名でたくさんの人物が登場する。この日は、小説『海嶺』の三吉が滞在したフォート・バンクーバー近くに住んでいるというストーラー夫妻が会場に足を運んでいた。しかもこの夫妻は、三吉が出港した知多半島で宣教師として長い間仕えていたというから驚きだ。天に召されて15年経った今も人々を出会わせ、神の御手の中に招き続けている三浦綾子。彼女を通して、今も生きて働かれる神を目の当たりにさせられるようであった。
三浦綾子読書会には、朗読部門があるが、第2部の初めには、メンバーの飯塚良子さんが『銃口』の終わり部分を朗読し、聞き手を三浦綾子の世界に引き込んだ。『銃口』は、綾子氏が書いた小説の中では最後の作品になる。綾子氏の遺言であり、三浦文学の集大成と言われるこの作品について、三浦綾子読書会代表で三浦綾子記念文学館特別研究員である森下辰衛氏が講演を行った。
「昭和を背景に神と人間について書いてほしい」と頼まれ、昭和とはどういう時代であったのかを考えて書いたこの作品で、綾子氏は自身の一番の心の痛みであった軍国教師としての経験に初めて本格的に触れることとなった。連載の途中でパーキンソン病を発症し、病の中にあった綾子氏は、時には涙を流し、嗚咽(おえつ)するほど思いを込めて作品を書き進めたという。
森下氏は、『銃口』の主題である北海道綴方教育連盟事件と綾子氏の人生を重ねて話をした。綾子氏は、戦後教師として挫折を覚えたが、『氷点』をきっかけにして、日本人の魂の教師になっていったのではないか。真の教師とは、言葉をもって人間を人間たらしめ、本当の真理の言葉に導いていく存在なのではないか、と語った。そんな日本人の教師として、神に立てられた綾子氏は、誰よりも日本を思っていた。その思いが『銃口』の中にも表れており、日本人は闇の中を歩んでいる、という切実な祈りを、綾子氏は神にささげげ続けていたのだというメッセージを明らかにした。
三浦綾子読書会顧問で東京JCF牧師の長谷川与志充氏は、「三浦綾子さんを通して神様が語られたことを、私たちがしっかりと受け止めて、日本や世界に伝えていくことができますように。私たちを用いてください」と祈り、集会を閉じた。
三浦綾子読書会は、定期的にさまざまな場所で集会や、三浦綾子作品にちなんだツアーなどのイベントを開催している。読書会メンバーも随時募集している。詳細・問い合わせは、三浦綾子読書会(メール:[email protected]、担当:長谷川)まで。