北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館が今年、開館20周年を迎えた。それを記念して三浦夫妻の書斎を復元した分館が9月29日にオープンし、一般公開された。その旭川市で、9月27日から29日まで「三浦綾子読書会旭川全国大会」が開催された。部分参加も含め、全国各地から60人余りが参加した。
◆9月27日(木)
全国大会最初のプログラムは、27日午後2時から、三浦綾子が所属していたことで知られる日本基督教団旭川六条教会で行われたシンポジウム。三浦文学に関わる4人が講演し、その後全体ディスカッションが行われた。4人の講演の要旨は次の通り。
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田中綾(三浦綾子記念文学館館長) 『母』『銃口』が今読まれること
『母』『銃口』の書かれた時代背景を考えると、今読まれるべき内容が含まれている。今年、日本は戦後73年だが、今の時代は昭和初期の様相と非常に似てきている。1937(昭和12)年、文部省は『国体の本義』を刊行し、全国の学校、官庁に頒布した。その内容とは、日本を、皇室を宗祖とする一大家族国家と規定するもので、初版だけで30万部が印刷された。この書物は当時、国民教育の書として幅広く読まれ、天皇が著しく神格化され、その天皇に命をささげることこそ光栄とする教育がなされ始めた。国民は何の抵抗もなくそれを受け入れたと、三浦綾子は自著『石ころのうた』で記している。
なぜ教育の現場でこの本が使われたかというと、欧米列強に対抗するために、日本の良いところ、日本の文化、伝統を国民にたたき込むためだった。当時漠然とした不安を抱え、自分のよりどころ、立ち位置を求めていた国民(若者層を含め)は、日本の良さ、素晴らしさを強調しているその本をすんなりと受け入れた。その本は、個や個人主義的人生観を否定し、全体主義的方向に国民を向かわせるのに有効に用いられた。若い人々を全体主義、右翼的方向に導き「個」の思想を問題視し、思想統制の時代に向かった。
2016年に小学館新書として出版された三浦綾子著『国を愛する心』の帯に、「あの頃より、日本は悪くなっているのではないでしょうか?」とある。そこに年長者として、過去の歴史から学ぶ必要さを、今の若者たちに伝える責任があることが指摘されている。
土屋浩志(三浦綾子読書会運営委員) 災害の時代の三浦綾子~『泥流地帯』の希望
7年前の東日本大震災、2年前の熊本地震、そして今年に入って、大阪地震、豪雨災害、また今回の北海道地震と災害が続いている。三浦綾子著『泥流地帯』は、1926(大正15)年の十勝岳噴火により144人の死者が出、被災した上富良野町の復興物語だ。そのテーマは「なぜ、人間には苦難があるのか」。
拓一の母タエの言葉がある。「わたしには上手に説明できませんけどね。今、拓一が言ったように、人間の思いどおりにならないところに、何か神の深い考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に会った時に、それを災難と思って歎(なげ)くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」
39年前、10代の頃、私は腎臓の病気になり、小学・中学時代は「生きていて何の意味があるのか」と自殺願望を持った。一方、「この病気にも何か意味があるはずだ」と考えてもいたが、学生時代に『泥流地帯』に出会った。この小説で、人生の苦難にも意味があるという「希望」が与えられ、未来を信じて一歩を踏み出す勇気を頂いた。
長谷川与志充(よしみつ)(三浦綾子読書会顧問) 三浦綾子読書会の18年
発足したのは2001年7月、東京において、私が当時34歳の時だった。詳細は『ドラマティック・ゴッド』(イーグレープ)参照。全国展開したのは02年2月から、旭川、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡、那覇で。03年、東京において演劇「道ありき」「ひつじが丘」を上演した。04年から06年に全国大会を開催した。06年には、ソウルと旭川で国際大会を開催した。この年、国際化、組織化、弟子化のビジョンが与えられた。
当時顧問であった森下辰衛(たつえい)氏が献身を決意し、07年から読書会の活動を開始した。08年から海外の日本人教会を中心に、読書会の海外展開を開始した。11年9月の小樽における全国大会で新代表に森下氏が就任。私が顧問に。森下氏は伝道講座、講師養成講座、案内人講座を、私が牧師会を担当することにした。17年から、さらに海外での展開を拡張し、昨年から釜山とソウルで読書会活動を本格的に始め、その他の海外諸都市も視野に働きを展開しようとしている。
森下辰衛(三浦綾子読書会代表) 私と三浦綾子記念文学館の23年
大学で三浦文学を教えて、学生たちが変わっていくのに驚いたこともあり、1995年に初めて学生たちと旭川を訪れ、旭川六条教会で三浦ご夫妻に会った。当時、文学館構想が始まっていたが、三浦綾子さんは「誰も仲間外れになる人がないようにね」「神様は、私が思っていたよりもずっと深くて暗い」とも語られていた。文学館がオープンした98年、その8月に、福岡から1カ月間家族6人で旭川に滞在した。綾子さんの資料を見せてほしいと願ったが、高野斗志美(としみ)館長から断られた。当時、文学館がオープンしたばかりで混沌としていたこともある。
99年に綾子さんが召天し、高野館長から「あの時、資料を見せてあげなくて申し訳なかった」という謝罪があった。2002年、高野館長召天。06年に文学館特別研究員となり、月1回のミニ講演会、旭川読書会、小泉雅代学芸員の展示の手伝いをした。その後、祈りの中で大学に戻らず旭川に留まる決断をした。11年、読書会代表になった。
12年、被災地に三浦綾子の本を送る活動を通じて、読書会と文学館との関係に良い変化が起こった。13年、難波真実氏が文学館の事務局長に着任し、文学館読書会がスタートした。14年に光世さんが召天。「光世さんが死んだら文学館は終わり」と言う人もいたが、三浦夫妻の人間的遺産ではなく、三浦文学そのもので『氷点』出版50周年の年に『「氷点」解凍』(小学館)を出版し、NHKのラジオ深夜便に出演して三浦文学を広く紹介できた。14年から17年にかけて、『母』『銃口』の講演依頼が多数あった。15年、長友あゆみ氏が学芸員に着任、17年、田中綾氏が館長に就任された。今後、若い世代に三浦文学を正しく伝えていく使命を強く覚えている。(続く)
(文・込堂一博)