私が旭川に転任したとき、三浦綾子さんは69歳、夫の光世さんは67歳でした。綾子さんは、肺結核をはじめ、直腸がんや帯状疱疹(ほうしん)などの病気にかかり、絶えず闘病生活を強いられ、病気の問屋とも言われていました。しかし、夫・光世さんの口述筆記による助けや、元看護師である八柳洋子秘書の助けにより、老年期を迎えても執筆活動を続けることができました。私が綾子さんに初めてお会いした翌年の1992年1月末、綾子さんはさらに難病のパーキンソン病と診断されました。このことは、綾子さんの老年期における最も厳しい闘病生活に入ることを意味していました。
医学辞典は、パーキンソン病の症状について次のように記しています。
「最も目立つのはふるえと運動障害で、じっとしている時の手足のふるえ、動作緩慢とぎこちなさ、歩きはじめの足のすくみ、止まろうとしても止まれない、転びやすい。声が小さく聞き取りにくい。表情がかたい。自立神経障害として便秘、起立性低血圧、排尿困難や失禁が起こることがある。性格はせっかちな傾向が見られ、うつ気分もでてくる」
ともかく大変な難病で、綾子さんの場合、薬の副作用で幻聴幻覚にひどく悩まされたと聞きました。本来、明るく積極的な性格の綾子さんにとって、パーキンソン病による闘病生活は非常につらく苦しいものであったことでしょう。しかし、このような大きな試練の中でも、作家生活30周年の94年3月末に、最後の長編小説『銃口』が小学館より刊行されました。なぜ、過酷な病状の中で、この最後の小説を執筆したのでしょうか。
88年秋ごろ、小学館の月刊PR誌「本の窓」編集長の眞杉(ますぎ)章氏が三浦宅を来訪しました。綾子さんは「昭和を背景に神と人間を書いてほしい」と連載小説の依頼を受けたのです。ちょうど昭和が終わり、平成へと時代が移り変わろうとしている時期で、戦争体験者である綾子さんは、その時代の変化を敏感に感じ取っていました。「これからの時代、油断すると日本は戦前回帰を求め、再び言論が封殺され、戦争の時代に突入するかもしれない」という危機意識であったようです。
連載を承諾し資料を少しずつ集め始めましたが、パーキンソン病の恐ろしい症状<朝起き上がろうとしても足が立たない、体重の減少、手の震え、足のもつれ、寝汗>が出始めていました。
このような厳しい状況下でも、熱烈な元軍国主義教師であった綾子さんは、深い懺悔(ざんげ)と遺言的警告を込め、『銃口』を祈りつつ書き続け、それは「本の窓」の90年1月号から93年8月号まで37回にわたって連載されました。
この『銃口』について、文芸評論家で旭川大学教授の高野斗志美氏が実に的確な解説をされています。
この長編小説が明らかにしようとしているのは、昭和の基底にひそむ戦争の意味についてである。三浦綾子という作家は一貫して平和の尊さを主張しているひとだが、『銃口』を書きあげることで、昭和と戦争の関係を現在の時点であらためて問い直す仕事をなしとげたのである。
(中略)三浦綾子さんは抜群のストーリーテラーの力量をかたむけて北森竜太の波乱に満ちた人生を描きあげた。そのことによって『昭和とはなんであったのか』を鮮烈に問いかけた。戦争の記憶を風化を許さぬものとして現在に呼びもどした。
それはまた、ひとりの人間として、ひとりのキリスト者として、そしてひとりの作家として、深い責任感にうながされて、国家権力と民衆の関係を問いかけ明らかにすることであった。この作品によってついに<石ころ>は鮮烈な叫びをひびかせた。三浦文学のすぐれた記念碑である。(小学館文庫『銃口』解説より)。
三浦綾子研究で知られる黒古一夫氏は、自著『三浦綾子論』(小学館)で、以下のように記しています。
三浦綾子の作品を読んでいて気付かされるのは、彼女が持続的に先の戦争が人々の心に遺した傷の在り様を問いつづける、その真摯(しんし)な態度についてである。(中略)更に言葉を継げば、人間性の剥奪という点で他に類例を見ない戦争に対して、三浦綾子は人間の側から何度でも繰り返しとらえ直さなければならない、と考えていたのではないか。戦争が徹底的に傷つけてしまった人間の心に対して、果たしてそれはどのように癒すことができるのか。あるいは、戦時下において人間としての尊厳は守られていたのか。三浦綾子の関心は、もっぱらこの2点に絞られていた、と言っていいだろう。
(中略)そして、戦争は「理不尽な死」を強いることによって、何よりも人間の心をその深いところで傷つける。この認識がまた三浦綾子に戦争を主題とする小説を書かせている、とも言える。人間の存在をかけがえもなく大切なものだと考えている三浦綾子らしい姿勢と言えるだろう。(第3部「『戦争』と『歴史』、第1章「戦争」を最大の悪として」より)
晩年の綾子さんの切なる祈りは、非戦と平和でした。戦争と平和に関する言葉を三浦作品からピックアップしてみます。
わたしたち人間は、人を殺すためにも殺されるためにも生まれてきたのではない。神を信じ、人を愛するために生まれて来た。(『それでも明日は来る』)
戦争の恐ろしさは数々ある。その中でも最も恐ろしいのは、人間が人間性を失うことだと私は思う。人間に生まれて来た以上、私たちは人間として生き、人間として死んで行く権利がある。(『わが青春に出会った本』)
7年前には見えなかったものが、今はっきり見えるのだ。「無駄な戦争で死んで行く」わたしはこの言葉を再び読み、3度見つめた。わたしもまた「無駄な戦争」に青春の情熱をかけて過ごしたのだ。(『石ころのうた』)
小説を書くことよりも、もっと切実に、4、6時中思っていること、それは平和の問題である。(『それでも明日は来る』)
もし、わが子わが夫を死なせたくないという親や妻を非難するとしたら、全国民を非難しなければならなくなる。誰も死ぬのは厭(いや)なのです。殺されることも殺すことも厭だと思っているのに、一体誰が戦争にかり立てるのか。(『さまざまな愛のかたち』)
わたしは戦争とは、人権無視、人格無視、国民の意見を踏みにじる、恐るべき国家権力の一つの姿だと思いますね。国家権力が、武力を持っているからこそ戦争は起きるわけですよ。敵を武力によって攻撃する前に、先ず自国民を武力によって黙らせる! これが戦争の先がけであります。国民の口を封じておいて無理矢理戦争に突入する。このことをあなたがたは今、ここにしっかりと銘記して頂きたい。(『青い棘』)
日本の将来を真剣に心配し、平和を祈り求めていた綾子さんでしたが、病状は日ごとに悪化し続けていました。99年7月14日の夕方、容体が急変し救急車で自宅近くの進藤病院に入院することになりました。個室には、脚部を折りたたむことのできる低くて狭い寝台があり、光世さんも夜泊まることができました。一進一退の状況でしたが、次第に体調が安定し、8月9日、旭川医科大学に近い高台にある旭川リハビリテーション病院に転院しました。三浦宅から車で10分くらいの近距離にある病院です。綾子さんの入院中、光世さんは、日中は自宅で仕事をし、夜は個室に泊まって綾子さんの介護をし続けました。茨城からは、宮嶋裕子初代秘書が光世さんの手伝いのために幾度も三浦宅を訪れていました。秋を迎え、綾子さんの最後の時が一刻一刻と近づいていました。(続く)
◇