私は、本コラムの3回目に「旧宅解体と保存運動の渦の中から」について書きました。三浦夫妻から教会に寄贈された旧宅をめぐって、私も教会も「思いがけない渦」の中に巻き込まれ、複雑な日々を余儀なくさせられました。しかし、この旧宅騒動をきっかけに「旭川に三浦文学館を!」という機運が一気に高まり、ついに1998年6月13日、待望の「三浦綾子記念文学館」が完成し、関係者は喜びに沸きました。創世記1章2、3節の聖句を思い起こします。
「地は茫漠(ぼうばく)として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』 すると光があった」と。主なる神は、混沌とした渦の中から、素晴らしい文学館完成へと導いてくださいました。
一方、復元することを前提に解体された旧宅は、保存はされていましたが三浦綾子記念文学館では復元計画がないことから、保存運動に関わった人たちは、復元の適当な場所探しに苦闘していました。そのような中で、小説『塩狩峠』の舞台である和寒(わっさむ)町が、開拓100年記念事業の一環として、何と旧宅復元を決定しました。名称は「塩狩峠記念館」。復元場所はJR塩狩駅近くで、復元した旧宅と、多目的ホールを備えたコミュニティー施設を組み合わせた形で建設に取り掛かりました。何という主の大きな御業かと感嘆します。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道者3:11)
さて、この塩狩峠記念館完成直前の99年3月に、三浦夫妻は大きな悲しみに襲われました。それは、26年余りの長きにわたって三浦夫妻の片腕として支えてこられた2代目秘書の八柳洋子さんが、肺がんのため55歳で召されたからです。八柳さんは元看護師で、秘書の話があったとき、最初は無理だと断ったようでした。しかし八柳さんが「秘書をやってみたい」と強く願ったので、ご主人の務さんが「愚痴を言うな。三浦夫妻とのことを他言するな」という条件で秘書になることを許したと聞きました。
71年から98年(途中中断の時期あり)まで、八柳さんは実に献身的に秘書を務められました。特に三浦綾子記念文学館が建てられた当初は、秘書として超多忙な毎日を送っていました。しかし98年7月、三浦家の近くに検診車が来て診てもらったところ、すでに手遅れの肺がんであることが分かりました。ご主人から末期のがんであることを知らされた八柳さんは、その告知を静かに受け止め、旭川六条教会の月報に次のように寄稿されました。
神様からの贈物
今年の誕生日に、神さまから思いがけず「がん」という大きなプレゼントを頂きました。8月3日の夕方、夫より私の病気のことを聞かされました。現在の「がん」の進行状態のこと、今後の治療のこと等すべて私に告げてくれました。話す夫は本当に辛そうでしたが、聞く私は不思議なくらい冷静にすべてを受け容れることができました。そして心から夫に「本当のことを言ってくれてありがとう。今まで辛い思いをさせてごめんなさいね」とお礼を言うことができました。
(中略)私の55年間の人生を振り返ってみますと、実に幸せな日々でした。よき家族に恵まれ、よき夫に出会うことができ、すばらしい職場が与えられ、旭川六条教会に導かれ沢山のよき信仰の友を与えられ、何より幸いでしたのは、すばらしい川谷(かわたに)先生と芳賀(しが)先生のお二人の牧師先生のご指導のもとで信仰生活をつづけさせて頂いたことは、私の人生にとりまして実に幸せなことでした。
私は罪深く、心弱く、おく病者ですが、神さまは「弱い時こそ強くして下さる」とお約束して下さっておられます。今、私はこの御言を実感しております。又、私は「がん」という病を得たことにより、より一層、神さまのご臨在を強く感ずることができましたことは大きな恵みです。
(中略)これからの一日々々は私にとって大切な時間です。充実した日々をすごしたく思いますが、これからどんな苦しい思いに直面するかわかりません。フィリピの信徒への手紙1章29-30節にありますように、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです・・・」(新共同訳) 今からこの御言をしっかり胸に貯えてどんな苦しい時にでも、神さまからの贈物として受けとめて戦うことができればと祈っております。そして、よい思い出を沢山残して、与えられた命を全うさせていただきたく思います。私のためにひきつづき、ご加祷、ご声援頂ければ幸いに存じます。
この一文は、末期のがんを告知されてすぐの98年9月ごろに書かれたものです。突然のがん告知を「神様からの贈物」と、毅然(きぜん)と受け止めた八柳さんの信仰に、内心驚嘆させられます。八柳さんは控えめな方で、誠心誠意、三浦夫妻の秘書として仕えられました。全国各地から三浦宅に届けられる果物、菓子などを「おすそ分けです」と、笑顔で教会に幾度も届けてくださったことを懐かしく思い出します。
八柳さんは食事療法や民間療法を取り入れつつ、11月初めまで週3回三浦家を訪れ、秘書としての働きを続けられました。一方、八柳夫妻には子どもがいなかったため、自分が召された後一人残されるご主人のために、ご飯の炊き方やおかずの作り方を教え、身の回りのすべてを整理し、99年3月1日、旭川市立病院で召されました。自宅に戻った八柳さんの遺体を前に、綾子さんは顔を幾度もなでながら「洋子さん、きれいな顔だよ」と言い涙を流されました。三浦夫妻にとって、八柳さんは家族の一員そのものでした。後日、光世さんは『死ぬという大切な仕事』(光文社)で、八柳さんの死を「秘書の見事な死」と表現されました。
八柳さんは亡くなる前、自分が亡くなった後の三浦夫妻を案じ、初代秘書の宮嶋裕子さん(茨城県在住)に連絡されていました。「裕子さん、綾子さんたちを助けに来てくれない。あなたならあの2人を助けてあげられるわ」と。八柳さんが召された3月、宮嶋さんは旭川の三浦家を訪ね、以来時間を見つけては三浦夫妻の手伝いのために幾度も遠路を通い続けました。
綾子さんにとって、八柳さんの死は非常に大きな悲しみと衝撃で、しばらく体調もすぐれませんでしたが、それから2カ月後の5月1日、快晴の下、塩狩峠記念館がオープンしました。開館に先立って4月30日に記念式典が行われ、三浦夫妻も出席。和寒町長と共にテープカットし、開館を祝いました。綾子さんの召される半年前のことでした。
旧宅解体騒動をきっかけに、三浦綾子記念文学館と塩狩峠記念館の2つが、綾子さん健在時に完成したことは、主の大きな憐(あわ)れみであり、主の御業と言わなければなりません。塩狩峠記念館の入り口の掲示板には、光世さんの筆字で次の聖句が掲げられています。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば多くの果を結ぶべし」
まさに塩狩峠で一粒の麦として死なれた長野政雄さんの生涯は、綾子さんの小説『塩狩峠』でよみがえり、多くの人々への証しとなり、今も多くの実を結び続けています。(続く)
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