今月16日、米ワシントン・ポスト紙の記事(英語)に全米が揺れた。引退を表明した米連邦最高裁判事アンソニー・ケネディ氏の後任として候補に名前が挙がっているブレット・カバノー氏(53)に対し、40年近く前の性的暴行疑惑が持ち上がったのである。
訴えたのは、パロアルト大学(カリフォルニア州)教授のクリスティーン・ブレイジー・フォード氏(51)。彼女は実名で同紙のインタビューに答えている。事の次第は次のようなものだ。
フォード氏は、高校時代にワシントン地区で開催されたパーティーに参加したときのことだと語る。その際、同じく高校生で2歳年上だったカバノー氏に寝室へ引き込まれ、彼と彼の友人の2人にベッドに押さえつけられたという。2人は体を触ったり、彼女の衣服を脱がせようとしたりした。何とか隙を見て逃げることができたが、その時の気持ちをフォード氏は「殺されるかと思った」と述懐している。
この記事を受けて、米上院司法委員会は翌日、カバノー、フォードの両氏を呼んで24日に公聴会を開催することを明示している。
カバノー氏は現在、ドナルド・トランプ大統領から最高裁判事に指名され、上下院議会での認可待ちとなっている。こういう時期にスキャンダル、しかも性的な問題が持ち上がることは非常に深刻である。
折しも2018年は、昨年発覚したハリウッドの名プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏の長年にわたるセクハラ疑惑を受け、性的暴行に対する社会的な浄化運動が起こった年でもある。これは「#MeToo」(「私も」の意)運動としてメディアでも大きく取り上げられたことからも、うかがい知ることができよう。性的暴行は、政治家や芸能人たちが「現在最も引き起こしてはならないスキャンダル」の一つとして真っ先に挙げられるものである。
カバノー氏本人はもとより、トランプ陣営ひいては共和党は何とかこの問題を鎮静化させたいはずだ。
そのあおりを食らったのか、それとも純粋に個人的判断なのかは定かではないが、ビリー・グラハム氏の息子で、後継者のフランクリン・グラハム氏が18日、この件に関して米国の保守系キリスト教テレビ局CBNのインタビュー(英語)に答えている。その中でグラハム氏は、カバノー氏を擁護するとも取れる発言をしている。
「カバノー氏のような輝かしい経歴をお持ちの方に対し、彼がまだ10代だった40年近く前のことを持ち出すなんて、恥ずべきことだ。(判事指名と本件は)関係ない問題だ」
しかしこの発言で、福音派内が揺れている。米国福音同盟(NAE)元副会長で、福音派でありながらもバラク・オバマ前大統領への支持を訴えたことで知られるリチャード・ザイジック氏は、自身のフェイスブックでグラハム氏のインタビューを紹介し、「彼のこのような発言は、多くのキリスト者にとっては受け入れ難いだろうし、福音派そのものをいい加減な集団だと思わせてしまうだろう」と苦言を呈している。
しかし面白いことに、筆者の知り合いである南部バプテスト系の友人や牧師たちは、同じインタビューを紹介しながらも概ね好意的にグラハム氏の発言を受け止めているようだ。
筆者が以前書いたカバノー氏関連の記事でも紹介したように、現在、米国の最高裁判事は次第に保守化している。引退を表明したケネディ氏が中道派であったため、これまでは判決にバランスが保たれていた、という見方もある。もしカバノー氏が最高裁判事に就任するなら、このバランスが崩れてしまうと考えるリベラル識者は多い。
40年近く前の出来事(厳密にはカバノー氏は出来事そのものを否定している)を持ち出してでも、カバノー氏の就任を阻止しようとする民主党からの攻撃なのか。それとも単にこのタイミングで一女性が沈黙を破ったということなのか。
多くの人々は前者を支持するだろう。しかしこれを証明することはできない。なぜならこの不透明感こそが「政治劇」の本質だからである。
キリスト者としてこの問題に対し、私たちが立脚すべき視点があるとするなら、このような政治劇に米国の福音派が本気で向き合おうとするかどうか、である。グラハム氏のインタビューをいち早く報じたのがCBNであることから、これは宗教右派的な「政治的一手」であると見ることもできる。1990年代から2000年代にかけて、CBNの創立者であるキリスト教右派の重鎮、パット・ロバートソン氏は、「クリスチャン連合」という政治団体を立ち上げ、ジョージ・W・ブッシュ政権樹立の一翼を担った。その彼らが今度はグラハム氏から言質を取り、トランプ政権を間接的に擁護したと考えることもできる。
米老舗誌「アトランティック」の8月の記事(英語)によると、米国では現在、福音派の教会へ通う人々の数が次第に減り、低所得者層はかつてのキリスト教会へ通うときの面持ちで、今はトランプ氏の集会に出席するようになっているという。
「トランプ教会」と題したその記事によると、米国では教会でも貧富の差が拡大し、教会コミュニティーがもはやブルーカラー層にとっての憩いの場とはなり得ていないという。教会の牧師に代わって彼らを鼓舞し、勇気付け、満たしてくれるのは、トランプ氏が集会で行う威勢のいい奔放発言であると記事は述べる。記者はこれを皮肉って「トランプ教会が生まれつつある」と表現している。
かつての大統領選では、ヒラリー・クリントン氏に対抗する意味でトランプ氏を支援していた福音派。しかし中間選挙を前に、トランプ氏および彼の言動が福音派内の「踏み絵」状態を生み出していると考えることはできないだろうか。今回のカバノー氏の事件に対する好対照の反応を見るにつけ、福音派がそのアイデンティティーを次第に失いつつあるように私は危惧している。
1980年代、テレビ伝道者たちが一躍有名になり、その直後にバタバタと性的、金銭的スキャンダルで倒れていったとき、彼らを擁護する人はいなかった。また当の本人たちもそれを「罪」と認め、その第一線から退く決断をした。
これは従来の福音派内における浄化作用であった。それは「宗教」という領域で勢力を伸ばしてきた「福音派だからこそ」の作用である。しかしこれが政治の世界でも通用するのか。政治には政治のルールがあるため、そのあたりは曖昧模糊(もこ)とする着地点で良しとするのか。
事実、最高裁判事の任命に関わるという「政治的状況」のみに絞って考えるなら、今は政治的駆け引きが必要な場面である。米国司法委員会のメンバーは、共和党11人に対し民主党が10人、上院本会議では51人対49人と僅差であり、米国の場合、党に属していたとしても個々人の判断を優先することが比較的容易にできるシステムであるため、共和党が民主党を上回っているからといって安穏とはしていられない。
果たして21世紀の福音派は、この政治劇に足を踏み入れるのだろうか。
事は単に一最高裁判事を認めるかどうかではない。福音派が “Evangelicals” として培ってきた宗教的素養と浄化作用が、果たして政治の世界でも通用するのか、または政治の流儀に合わせて福音派側が変質していくのか、が問われているといえよう。
後者であるなら、それは福音派がトランプ政権を支持しつつも、結果的にトランプ氏という「踏み絵」によって分断、瓦解(がかい)、もしくはその共通性をメルトダウンさせてしまうことにもなりかねない。
この事件は単なる性的スキャンダルではなく、宗教者として先の10年間を見据えて注目していかなければならないだろう。
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