前回、トランプ氏を受け入れるよう声明を発したフラー神学校を題材に、第2次世界大戦後にかつて「根本主義者」と呼ばれていた人々が「新福音主義」として社会性を身につけて復活するさまを概観した。今回はその続きである。
彼らがキリスト教保守層に対して、しっかりとしたイニシアチブを取っていれば、おそらく今のような福音派の歴史にはならなかったであろうし、「宗教右派」と呼ばれる一派が80年代に活躍することもなかったのではないかと思われる。
しかし、現実は非情なもので、新福音主義を標榜(ひょうぼう)した人々は内部分裂してしまい、ある程度の地位を福音派の中で保つことはできたが、主導的な立場を保持することはできなかった。それが、ひいては彼らが今回の大統領選に、精神的バックボーンとしてそれほど影響を与えられなかった、と私が判断せざるを得ない要因の1つともいえる。
フラー神学校の成長と内部での対立
フラー神学校は1947年に「鳴り物入り」で開校された。そこには、多くの学生が集い、従来のような非社会的な姿勢を正すことを旨として、新たな保守層の希望の星として「丘の上の町」のように燦然(さんぜん)と輝き渡る予定であった。しかし、思わぬ「つまずき」が発生する。それは他でもない創立者チャールズ・フラーの息子、ダニエル・フラーによるものだったのだ。
ダニエルは、父チャールズたちが信仰の中心に抱いていた「ディスペンセーショナリズム(前回コラム参照)」を神学校の規定から外させた張本人である。彼と共にこの新しい校風を作り上げることに協力したのがジョージ・ラッド、ポール・ジュウェットら、いわゆる「新福音派第2世代」であった。
実は、「新福音主義」とカテゴライズされる人々は、大きく2種類に分類できた。創立者のチャールズの仲間、つまりフラー神学校創立を指揮した人々が「第1世代」である。そして、チャールズの息子ダニエルの仲間、つまりフラーを実際に一般社会へ開かれた神学校としていくことを志したのが「第2世代」である。
第1世代には、前回取り上げたフラー神学校初代学長ハロルド・オッケンガやクリスチャニティ・トゥデイ初代編集長カール・ヘンリー、そして当時の根本主義の大御所ウィルバー・スミスなどがいる。スミスは原水爆で世界が崩壊するというパンフレットを配布するくらいのディスペンセーショナリストであった。
イザヤ書7章14節の翻訳をめぐる議論が分裂のきっかっけに
最初の対立は、2代目学長となったエドワード・カーネルが当時一般的に用いられていた「欽定訳聖書(KJV:キング・ジェームス版)」を用いず、リベラリズムの研究成果を加味した1952年版の「改訂標準版聖書(RSV)」を学内で用い出したことから発生した。
米国では、無数といっていいくらいの聖書訳が存在するため、どちらでもいいように私たち日本人には思われるが、KJVとRSVは、決定的な対立を生まざるを得ない運命にあったといってもいい。その最たるものがイザヤ書7章14節である。この箇所は、日本でもおなじみの箇所で、新改訳では次のようになっている。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
この箇所がイエス・キリスト誕生を預言したものである、とするのが福音派一般の主張である。KJVでは、この「処女」に当たる部分が丁寧に「Virgin(処女)」となっている。だから、この女性がマリアで、生まれた男の子がイエスとされることに問題はない。
しかし、RSVはこの部分が「Young woman」(若い女性)となっている。これだとマリアの処女性は疑わしくなる。ちなみにRSVの流れを引くのが日本では「新共同訳」となっていて、下記のような訳になっている。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
ここに訳者の苦心が見て取れるのだが、「おとめ=処女」と拡大解釈するなら問題ない。しかし、リベラリズムが突いた聖書の矛盾点の中に、マリアの処女性に対する疑いがあったことを考えると、「若い女性がみごもって・・・」と訳されている聖書を用いることは、福音派の5大信条の1つを否定しているとも取られかねない。
これは今でも大きな論争を生んでしまう問題である。まして今から60年以上前の福音派内での出来事である。「フラーはどうなった?」「カーネル学長はリベラリズムに屈したのか?」と言われても無理ない状況であったろう。カーネル自身は、KJV全体の言い回しや用いられている英語が古めかしいことに苦言を呈し、洗練されたRSVを用いることを提唱したにすぎなかったのであったが・・・。
とはいえ、「おとめ=処女」説は受け入れやすい説明であったようで、騒ぎ立てていた人々は、時が経過する中でRSVを使用することを看過するようになっていった。ここまでが第1ラウンドである。
次の対立は、カーネルの後を継いで学長になったデビッド・ハバードをめぐってである。ハバードはフラー出身で、後に博士号を取得した秀才であった。彼が准教授時代に共同で出版した論文集に、リベラリズムで聖書をひもとくことを奨励する内容があったため、彼をフラーの学長にしていいものかどうか、第1世代と第2世代がついに対立することになったのであった。1962年12月に一同が会した中で行われた会議は、終始重苦しい雰囲気で話し合いが進み、最終的に第2世代が押し切る形で終結した。
しかし、一度生まれた亀裂は修復されることはなかった。第1世代の教授陣はフラーを離れることになり、彼らに追随する者たちは、むしろ反動的に「聖書をめぐる戦い」を開始したのであった。
フラー神学校の分裂の中のビリー・グラハム
この分裂を何とかして埋めようとしたのがビリー・グラハムであった。しかし、グラハム自身も大きな分裂の種を抱えていた。それは、1957年に彼が行ったNYでの伝道集会のことである。
1949年にLAで大成功を収めた「ビリー・グラハム・クルセード」は、その後も大きな成果を全米中で上げていた。その勢いを駆って彼は、1957年にリベラリズムの町として当時有名であったNYで集会を計画したのである。
この時、彼は前代未聞のプロジェクトを打ち上げた。それは、リベラル陣営の諸教会と協力して、このクルセードを開催することであった。結果的にNY集会は大成功を収めた。しかし「リベラリズムと手を組んだ」ということで、グラハムを強硬に批判する一派が生まれ、その批判の声は常に彼を悩ませていたのであった。
この時もグラハムを快く思わない人々が結託し、彼がフラーの分裂を仲介できる立場にないことを訴えたのである。グラハムというカリスマが陰りを見せ始めたこともあり、結果的に彼は効果的な働きをすることができなかった。
このフラーの出来事は「黒い土曜日事件」と言われ、新福音主義陣営内では黒歴史として不名誉な残り方をしている。この時に一致を保てなかったことで、新福音派内はモザイク状に分裂し、もはやイニシアチブを取ってまとめ上げる力を有する集団は存在しなくなってしまったのである。
新福音主義の分裂と「宗教右派」の台頭
やがてこの時分裂した強硬派の中から、後に「宗教右派」と呼ばれる一派が台頭してくる。「聖書をめぐる戦い」は70年代後半に南部諸州を中心に展開し、道徳的価値観を付与した形で政治勢力として勢いを増していく。
歴史に「もし~だったら」という言葉は禁句だが、もしフラー神学校での出来事にきちんとした着地点を見いだせていたら、新福音主義を標榜した人々によってまとめ上げられた「福音派」は、おそらく今とは異なった顔を見せていただろう。
いずれにせよ、福音派が政治化したことは厳然たる事実である。そして、その後の大統領選挙では、当選した人物の信仰的背景に加え、「中絶」「同性愛」「公立学校での宗教性問題」などがクローズアップされるようになってきた。これは、福音派にとって良かったことなのか? 常に「プロライフかプロチョイスか?」「LGBTをどう思うか?」という側面が強調される中で語られる「福音派」は、果たして歴史的に正しい姿を呈しているのだろうか? 今一度考えてみる必要があると思う。
◇