ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ・・・。(使徒行伝14:8~12、口語訳)
今の時代、私たちは周囲を囲む多くの敵におびえ、引きこもり、閉じこもり、生き難く思い、心身を萎縮させています。救いを求めるあらゆる努力がなされているように見えますが、神様は多くの人にとって遠く、疲れた人々は人生に投げやりになり、むなしさの中で無為に過ごしています。
そういう人を代表するように、聖書は「足なえ」を登場させています。これはなかなかの難病です。聖書は救世主が来るとき、彼らも「鹿のように飛び走る」とあります(イザヤ書35章)。ルステラにいた人は、生まれてからまだ歩いた経験がなかったという。ドッキリとさせられます。これはいったい誰のことか。もしかしたらもう老齢を迎えた人かもしれない。世界を見回してみても、自分の足で歩いている人は少ない気がします。人生のもう夕方5時を過ぎているのに、うずくまったままなのです。
この人々の癒やしのために、あらゆる活動が行われているのがこの世というもの。例えば、四六時中私たちはもう無数の音楽の中にいます。その最良のものは、花々や幼児のように神様に導いてくれるけれど、天国まで引き上げてはくれないように思われます。「すべての文化的活動は、原罪から癒やされたいと願う人間のあがきが生み出したもの」(シャルル・ボードレール)であるような気がします。政治やスポーツ界の狂奔、神学を含む学問、技術、経済界の騒ぎもまた然(しか)りでありましょう。
使徒パウロの語りは多分聞く者をうっとりとさせるほど気分よく、また面白かったことでしょう。抱腹絶倒。笑い転げる場面もあったに違いありません。閉じこもっていた足なえも、ついに自分の穴から出てきて、身を乗り出し、使徒の話のとりことなっていきました。こんなに楽しい時間は、まさに生まれて初めて。それは抹香臭いものでなく、彼が旅行中見聞きしてきたさまざまな世相の描写。快刀乱麻を断つがごとき痛快さがそこにありました。
ここで思い出すのは、古事記で天照大神(あまてらすおおみかみ)が私の郷里、信州戸隠山の岩戸に身を隠された時のこと。また、宗教社会学者・上田紀行氏の処女作『覚醒のネットワーク』で紹介されたスリランカの悪魔払いの儀式です。病者を取り囲み、部落の人たち総出で一晩中ドンチャン騒ぎをするのだそうです。孤独な人にこそ悪霊は憑(つ)くとありました。とにかく、パウロのトークは魅力的だったのです。
その顔はもう太陽のように輝いています。天来の爽やかな風も吹いてきました。多分語りの中心は自分の懺悔(ざんげ)話であったでしょう。敵意をむき出しにした殺人鬼が、一転してすべての人に対して「友情の人」となったという奇想天外のドラマです。
聞き入る足なえの中に「いやされるほどの信仰」が出てきたことを、パウロは認めました。この人の内面はもう充足し切って、「この人の言うことなら何でも聞こう」「このお方についてどこまでも行こう」、そんな思いがあふれ出したとき、雷が落ちてきました。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」との大声でした。
踊り上がって歩き出した足なえは、もう足なえではありません。生まれて初めて自分の足で立ち、踊りまくっているのです。目も開き、耳も聞こえ、多分歌も歌い出したことでしょう。何という愉快、何という喜悦。あれほど怖がっていたこの世界に、もう怖いものはありません。すべてのゴリアテは打ち倒されました。まさに死人のよみがえりです。以前うごめいていたすべての死と陰府(よみ)の影は、どこを見てももうありませんでした。
パウロの内面にも、同じ恍惚(こうこつ)と法悦の炎が燃えていました。そして、これは周囲に確実に伝わっていきます。それは、人間が人間である限り、どんな人にも伝わり得るのです。これがまことの宗教というものか。ここに人生の基礎となる喜びの岩があるのです。老境にある人も然り。1日は千日のごとしですから。
先日のラジオからの声。「笑顔が大事。不機嫌な顔はそれだけで公害です」。でも、私はちょっと気に掛かりました。心から笑顔で生きるには、今お話ししたようなドラマが必要なのではないかと。
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