10. まとめ トランプ氏の「決断」は何だったのか?
宗教的観点から
まず、これを宗教的観点から見るか、それとも社会的、歴史的観点から見るかによって評価は変わる。特にディスペンセーショナリズム的に見るなら、「いよいよ来た!」となってもおかしくはない。なぜなら、その先には政治的な「中東和平」はないからである。そもそも福音派(というよりも今回はファンダメンタリストと言い換えた方がいい)にとっての「平和」とは、この世で人間が生み出すことができるものとは捉えられていない。神が、キリストの再臨を通して一方的に、そして強制的に、この世に「もたらすもの」である。
このような宗教的観点からのイスラエル論を、決して「狂信的」と見なすことはできないだろう。なぜなら、議会で決定したこと(エルサレムに米国大使館を移転)を実行できない、と棚上げしてきたのは、彼らの代表たる政治家たちだからである。その詳細が分からない市井の人々の中で、これを「欺瞞(ぎまん)」と受け止める者が出てくるのは致し方ないことであろう。
2016年の大統領選挙について、多くの識者が「トランプ氏の勝利ではない。ヒラリー氏の『敗北』だ」と述べている。これは傾聴に値する。格差の是正がなされず、むしろワシントンDCにだけ通用する「常識」によって富裕層が優遇されていると捉えられるなら、ファンダメンタリスト的気質を噴出させる人々が出現することを「狂信的」と言い捨ててしまうことはできない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ファンダメンタリズム論争を繰り広げた歴史を持つ米国だからこそ、教えられた宗教的ロジックにのっとって行動することはこの国の原動力となってきたのである。
その延長線上にこのイスラエル問題も捉えるなら、トランプ大統領の「首都エルサレム承認」を歓迎することは、彼らなりの「処世術」と言えないだろうか。いずれにせよ、21世紀に「火中の栗を拾った」のは、良きにつけ悪しきにつけドナルド・トランプ大統領であることは、歴史的に記録されるべきだろう。
社会的、歴史的観点から
さて、社会的、歴史的観点から見る立場で物申すなら、この事態はトランプ政権ならでは、そしてこの時代だからこそ顕在化してきたと言えるのではないだろうか。
ドナルド・トランプ氏が大統領に選出された。得票率ではヒラリー氏に負けているにもかかわらず、である。システムとしての大統領選挙に関してはこれでいいだろう。しかし、個々人の意見を反映するという意味でのイスラエル問題に関して言うなら、トランプ大統領の決断は米国人のマジョリティーの総意とは言い難い。なぜなら、在米ユダヤ人集団の若者たちがそうであるように、米国は確実にリベラル化しつつあるからである。
80年代、同性愛と人工中絶をめぐる争い、また公立学校での祈祷の問題などを通して、WASPに代表される保守層は危機感を強めた。それにより福音派という政治の素人集団(莫大[ばくだい]な票田)を刺激し、政治の世界へと誘うことで自分たちの信仰を守る術を与えることに成功した。これを企図したニューライト、および宗教右派と呼ばれる集団は、80年代から90年代にかけて、一定の支持を得ることができ、そして事実大統領選挙のキャスティングボードを握った。
だが9・11以降、世界はインターナショナルからグローバルな世界観を求め出した。これは米国といえども例外ではない。インターネットの普及やSNSの浸透を通して、個々人の権利と主張は、場所や時間の隔たりを超越し、直接かつ効果的な形で半ば公共性(フェイスブックやインスタグラムなど)を伴いながら生み出される世界へと突入した。
その一方で、ポリティカル・コレクトネス(PC)という言葉が表すように、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を選択する義務が発生し、世界は次第にア・プリオリな信条や不合理な世界観をそのまま表明できなくなっていった。それはシミや汚れのない世界で、一見非の打ちどころのない真っ白な世界と言える。こういう世界を生み出そうということは、確かに志の高い働きである。しかしそれは、無機質で機械的、そしていかなる時でも「きれいに着飾った言い回し」を必要とする秘匿性の高い世界を生み出しつつあるとも言えよう。その透明度が増せば増すほど、「きれいな水に魚は住まない」ということになってしまう。
80年代、90年代の保守系からの主張は、まだこの秘匿性を意識することなく、語る本人も聞く聴衆も一定の「共通理解」を得ることができた。お互いに本音をぶつけていると理解し合えたからである。だから宗教右派の主張に対しては、賛成か反対かを表明することができた。その表明はそのまま個々人の信仰告白となり、社会的に認知されるかどうかは別としても、当事者同士は確信を語り合っていると見なすことができた。
だが21世紀になり、世の中があらゆる局面でPC化を追求するようになり、人々が結論を出すときに勘案しなければならないことが増えてきた。そうなると従来の価値観は2つの変化を遂げていくことになる。
1つは価値の転換である。保守的な感覚を今までは当たり前と思っていたが、実は世界情勢や異なる立場を知ることで、「このままでいい」から「変えていかなければ」へと価値観が変化する。米国がリベラル化しつつあるというのはこういう文脈である。
しかしもう一方、やはり人間の信条や宗教性に基づくア・プリオリな価値観を簡単に変えられない人々も存在する。その代表がWASPであり、今までの米国をマジョリティーとして牛耳ってきた集団である。彼らは自らの意見を言えなくなってくる。すると誰か闊達(かったつ)に自分の鬱積(うっせき)した気持ち(本音)を代弁してくれる存在を求め始める。自分にはそれほど魅力がない。弁舌が立つわけでもない。そう思っても本音は隠しておけない。だから代弁者を求めることになる。今回の出来事も、彼らにとっては「我が意を得たり」だろう。
早稲田大学公共政策研究所の渡瀬裕哉氏は、著書『トランプの黒幕―日本人が知らない共和党保守派の正体』(祥伝社、2017年)で、「トランプを大統領に押し上げた真の言動力は何か」という問いに対して、それは「共和党保守派」であると語っている。渡瀬氏が言う「共和党保守派」とは、「米国の建国の理念」に立脚した考え方をする政治集団である。まさにWASPがここに当てはまるのではないか。ここには「聖書を字義通り解釈する」キリスト教保守派と重なる部分が多くあり、またエルサレムこそイスラエルの首都でなければならない、とする人々も含まれることだろう。ただしそれは共和党の「主流派」ではない。主流派は穏健な政治姿勢を旨としている。
まとめ 「既存マジョリティー集団のヒステリー?」
まとめよう。今回のトランプ大統領の「決断」は、彼がどこまで深く考察したかは別にして、決して米国のマジョリティーの総意ではない。同じく、在米ユダヤ人の総意でもない。前者はトランプ大統領就任時に起こった反対デモからも明らかであるし、後者はイスラエル・ロビーの多様化、議会や政治家へのプレッシャーの低下などから推察することができる。
彼らは米国人である。その環境でネット社会と共存しているなら、その程度に差こそあれ、グローバルな視点で世の中の動きを理解せざるを得ない。パレスチナ問題もそのように理解していくことになる。そして、若い世代ほど伝統やしきたりというア・プリオリ的要素が少ないため、価値観の転換は容易に起こる。だから米国は、イスラエル問題に関しても次第にリベラル化していると言えるだろう。
では何がトランプ大統領をして、この時期に「首都はイスラエル」と宣言させたのか。私の見解では、WASPに代表される「既存マジョリティー集団のヒステリー」がトランプ大統領を動かしめたのではないかと思う。建国以来、常にマジョリティーとして君臨してきた彼らは、統計によるとあと25年から30年で数的に単一マジョリティーの地位から陥落しなければならないといわれている。だから今までの価値観にしがみつき、それを公的なものとして宣言することで、精神的な安寧を得ようということではないだろうか。
今まで4回にわたって概観してきた米国側のデータ、そして論調は、どれを見てもこの遷都に逆行するものである。しかし、あえてこれが行われたと推察するなら、これはまさに斜陽化しつつある者たちが、初めて自身の行く末を案じて上げた叫びではないだろうか。
そうなってほしくはないが、これからどんどんとこのようなドラスティック(過激)な変化が米国を襲うと予測できる。おのおのの出来事がどう決着するかではない。そのような前代未聞の出来事が起こり続けるという意味において、米国は、ひいては世界はドラスティックな時代へと突入しようとしていると考えられる。
最後に、常に私が言い続けていることだが、ここでも言わせていただこう。米国は「分断化」しつつあるのではない。米国そのものが「メルトダウン」しつつあるのだ。今回の出来事も、悲しいかな、1つの例証といえるのではないだろうか。
◇