米国のドナルド・トランプ大統領は6日、ホワイトハウスで演説し、公式にエルサレムをイスラエルの首都と認め、米国務省に対しテルアビブにある米大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるように指示したと表明した。
これまでもエルサレムを首都としてきたイスラエルは、ベンヤミン・ネタニヤフ首相がこれを歓迎する意向をテレビ放送で表明。一方、英国やフランス、トルコ、国連、またヨルダンやサウジアラビアなどの中東諸国と世界の多くの国々は、一斉に強い懸念と非難を表明した。
エルサレムの首都認定に対する見解が異なるのは、政治指導者の間だけではない。米国の福音派指導者の間では歓迎する声が多いが、世界の他のキリスト教指導者の反応は異なる。
米最大のイスラエル支持団体「クリスチャンズ・ユナイテッド・フォー・イスラエル」(CUI)の指導者、ジョン・ハギー氏(コーナーストーン教会牧師)は米FOXニュースに対し、「(トランプ氏の名は)歴史に刻まれるだろう。なぜなら、イスラエルを他国と同等に取り扱う勇断を下したからだ」と語った。
エルサレムの首都認定を歓迎した米国の福音派の著名人には、他にも次のような人々がいる(敬称略)。
ロバート・ジェフレス(ダラス第一バプテスト教会牧師)、ジェリー・ファルエル・ジュニア(リバティー大学長)、ジェームズ・ドブソン(フォーカス・オン・ザ・ファミリー創設者)、マイク・ハッカビー(元アーカンソー州知事)、ジョニー・ムーア(元プロバスケットボール選手)、ポーラ・ホワイト(テレビ伝道師)、サミュエル・ロドリゲス(全米ヒスパニック・キリスト教指導者会議代表)、トニー・パーキンス(家族研究評議会代表)、パット・ロバートソン(CBN創設者、リージェント大学長)。
一方、福音派であっても賛成一色というわけではない。米カルヴァン神学校のゲイリー・M・バーグ教授(新約学)は6日、米アトランティック誌(英語)に、「トランプ氏のエルサレム宣言を拒否しても福音主義者たり得る」と題した寄稿を掲載。「メディアの報道からは、福音派はイスラエルに関して1つの見解だけを持っているような印象を受けるが、現実には幅広い観点がある」などと論じている。
米国のカトリック教会はコメントを控える一方、ローマ教皇フランシスコは、米国の福音派とは相反する反応を示した。エルサレムの現状維持を強く求め、バチカンで6日に行った一般謁見では次のように述べた。
「私はエルサレムのことが頭から離れず、黙っていることができません。私はここ数日の状況を深く懸念しています」
「私が心から訴えたいのは、誰もがエルサレムの現状維持を尊重し、国連決議を妥当なものとして順守することです」
「聖地や中東、また全世界の利益のためにエルサレムのアイデンティティーが保たれ、強化されるよう私は主に祈ります。また、知恵と分別が優先されて、この新たな緊張が世界情勢を悪化させないよう祈ります。世界は多くの残酷な争いにより、既に騒然としているからです」
聖公会のトップである英国国教会のカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーは、慎重ではありながらも批判的なコメントを自身のツイッターに投稿した。
「エルサレムの現状維持は、聖地におけるキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の平和と和解を安定させる数少ない要素の1つです。エルサレムの平和のために祈ってください」
エルサレム総主教セオフィロス3世ら、エルサレム現地のキリスト教指導者13人は6日、共同で公開書簡(英語)を発表。「われわれは、これらの動き(エルサレムの首都認定)が、聖地エルサレムに憎悪や衝突、暴力、苦しみを増し加え、われわれを一致という目標から遠のけさせ、より深い破壊的な分裂へと導くことが確かだと考えます」とし、懸念を表明。現在のエルサレムの国際的な管理体制を維持するよう求めた。
それにしても、同じキリスト教でありながら、イスラエルに対する反応がここまで分かれる理由は何だろうか。キリスト教信仰の土台である聖書は、神が「イスラエル」に計画や目的を持っていることを多くの箇所で述べている。特に、新約聖書のローマ信徒への手紙11章26節には「全イスラエルが救われる」と書かれている。同様に旧約聖書には、ユダヤ人の「信仰の父」であるアブラハムに対する神の約束として、次のように書かれている。
「あなたを祝福する人をわたしは祝福し / あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて / あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)。
キリスト教徒がイスラエルに対して取るべき態度については、長年にわたり、非常に複雑かつ深い論争がなされてきた。しかし、その中心にあるのは、イスラエルに関する数多くの聖書箇所をどう解釈するかの問題である。前出のような約束は、一般的に「イスラエル」と呼ばれる神の民に対するものなのだろうか。そうであるなら、神の民はキリストに従う者で構成されており、約束は神学的にキリスト教徒にも当てはまることになる。
しかし、より重要なのは、1900年から2500年前に書かれたイスラエルに関する聖書箇所が、1948年に建国したイスラエルという現代国家に当てはまるかである。
米国の多くの福音派信者にとって、その答えは明らかだ。彼らにとって、シオニズム運動によってもたらされたイスラエルの建国は、もともと数千年前からユダヤ人のものであった領土をユダヤ人に回復するという聖書預言の成就だったのである。米国の多くの福音派信者は、イスラエルという国家を支え、守り、発展させるのは、キリスト教徒の役割だと見ているのだ。なぜなら神は、イスラエルを祝福する者を祝福するからである。
しかし、教皇やカンタベリー大主教のようなキリスト教徒にとっては、状況は違ってくる。イスラエルに関する聖書の約束が、1948年に建国したイスラエルの政治的状況に対するものではなく、一般的に神の民を意味するイスラエルである場合、状況はずっと複雑になる。
それは、それぞれが激しい迫害に直面していると考えているイスラエルとパレスチナ双方にとっての、正義の問題になる。ホロコーストの傷跡を持つイスラエル人は、隣接地域の住民が自分たちの絶滅を願っていることを常に心配している。一方、パレスチナ人は、強制的な植民地政策の中で、ほとんど相談もないまま土地や家から追い出され、比較的最近まで自分たちのものであった土地が、今も占領下に置かれた状態で暮らしている。
加えて、正義と憐(あわ)みを教える聖書の戒めを重く受け止めつつも、彼らにとってイスラエル軍は、歓迎すべき神の軍隊というよりは、むしろ抵抗すべき抑圧者として映るのである。